憤死から読み解く「こころ」





 ということで急に今日閃いたのが、9カ月ぶりくらい?になる「こころ」の話。


 Kの死を失恋死だとみなすということに対する違和感みたいなものがあって論理的に突き詰めていけばどうかということを延々とやっていた気がするが、それでも外堀をぐるぐると回らされているかのような違和感が拭えなかった。というかその違和感は毎回感じていたものだったが、その違和感の正体とは何であるかと考えるに、これは憤死なんじゃないかとふと思った時にいきなり霧が晴れるかのような思いになった。


 憤死!
 そう捉えるとすべては納得がいく。文学的・論理的にはKの死はただ自殺しただけである。
 しかし自殺するだけなら首吊りでも良さそうなものだし、当時首吊りという手段がなかったかと言われると全くなかったとは言えないのではないかと。なんなら入水自殺とか他にもいろいろやりようはありそうなものである。というより、その首を切って死ぬという苛烈な死を選ぶということには、そこに文学的・論理的な脈絡がなかろうとも明らかな憤死であり、悲憤慷慨して死んだのであり、つまりは高潔な死であり、義士による正義を主張する死であると捉えなくては話の理解がおかしい。国語教育というものは論理を追うだろうが、だからといって文化や社会習慣を完全に排除するのはおかしいし、正解は選び取れてもそれが誤解に基づく正解である可能性があるということをここでは言っておきたい。


 話を戻す。
 高潔な士による義憤の死がすなわち憤死であると捉えると、そこには無言の主張といったものの可能性が出てくる。そしてなぜ先生が後年まで苦しまねばならなかったのかといえばすなわちこのことであり、先生はKの言わんとするところが正確に読み取れていた。先手を打ってお嬢さんを奪ったがゆえに罪悪感があったと考えるのはまだまだ生ぬるい話であり、実際には姦計を使い、策を弄してKを出し抜かねばならなかった先生の思いなどをKは恐らく正確に把握した。そしてお嬢さんが先生と結婚する話を聞かされたKはまっ先に違和感を感じただろう。そうならそうと言えば良いだろうものをなんと回りくどいことをするのか。なぜそんな迂遠な道を辿るのか?それを考えると先生の胸中は簡単に察することができる。Kの内心の告白を聞かされた先生は焦った。なんとしてもKより一瞬早くお嬢さんを手に入れなくてはならなかった。そして「向上心のない者はばかだ」などと言った。しかしこれの実際の働きは一瞬時間を稼ぎさえすればいいことであって、その他のことは全く意味のないことだった。
 そして先んじてお嬢さんを手に入れる約束をした先生だったが、Kはそこで確かに失恋をした。しかしそれよりも重要なことは先生がそういう汚い手を使う者だとはKは思いもしなかったということ。奥さんからすべてを聞かされた際にすべてが明らかになったということ。そして先生という卑しい性根ながら小心者であり、そういう人物を後々まで苦しめるにはどうすればいいか?それが憤死という選択だった。


 乃木希典が明治天皇の死に際して殉死をしたと聞いたときに、先生は思わず「殉死!殉死!」と言っている。なぜそこまではしゃいだのか。先生はKの死によって姦計を弄する卑しいやつであるという属性が身についてしまった。それはもう何をどうしようとも拭えないものであり、そのことに先生は苦しみ続けたが、Kの憤死に対するに先生は殉死を選び取る道を発見する。これは明らかにセットになっている。これによって卑しい人間であり姦計を弄するよう人間であることが決定づけられた先生は、それもKの死によって一層強められたそれが、ようやくその運命から逃れることができた。違う、俺はそんな卑しい人間じゃないと幾度も思い続けただろうがどうしても払拭できなかったものが、この殉死という概念の獲得によって達成されることになるのだ。


 これはつまり先生の救済ということになるが、これはこころの問題であるというよりは文化であり社会習慣の理解であり、つまり文学そのものから離れた観点から文学を観るということになるわけだが、これというのは学生のころ最も嫌っていた、文学の聖地巡りブーム、そういう方向性から文学を解釈するという方向性の亜流だということを付記しておきたい。



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