呂后とは何であったのか






 最近思うことは呂后とはなんであったのかということで。
 前漢の高祖である劉邦の妻であるが、やったことは大変に惨たらしいこともあったりする。
 しかし見方を変えれば、当時建てたばかりの前漢を倒す可能性があるのは韓信くらいのもので、その韓信を速攻で誅殺したことを考えると案外非常に有能だったりする。
 あの呂后を一過性の現象であり、個性豊かで変わった人だったと思うなら再現性はないわけだけど、しかし人なんてそう大差ない生き物なんだから似たような状況に置かれれば似たような立ち居振る舞いをするんじゃなかろうかと思えば再現性のある事例となり得るのではないだろうか。
 だとすればじゃあそれはどのような状況だろうか。


 ①権力が大きい
 何しろ皇帝の劉邦の妻であるので絶大な権力を握っている。今までまったくそうでなかったものがいきなり権力を行使できる高位へと上ること、そこでどのようにふるまうかという経験に乏しいとなると権力の濫用を引き起こす引き金になり得ると言える。
 階段状に少しずつというわけではなく、一気に高位へ上りさあ使っていいですよとなると経験がないので濫用へと繋がるのではと。逆に劉邦は少しずつ濫用しているので、権力への慣れもあれば経験もあったと言える。


 ②働き者である
 呂后は若いころ非常に働き者であったということ。つまり物事への目配せが非常によくできていた可能性があるということ。なまじ働き者であると、それも優秀であるとやたら細かいところが気になって仕方がない。つまりよくわかる、わかるがゆえに不安を引き起こしやすい。であれば速攻で対処・解決をするということは考えられる。
 そういう意味では劉邦は有能ではなかったかもしれないし、有能な人物に任せるという鷹揚さはあったかもしれないが、後年の猜疑心の強さを考えるに決して手放しに無能だとは言えないところもあるのではないかと思う。有能だともいえないだろうが、かといって無能であるとも言い難い。


 ③残虐である
 呂后といえばこれといった感じ。
 なぜ残虐であるのかといえば①と②が下地にあるのは確かだが、しかし本人がいくら残虐であろうと思っても自ら手を下すとなると躊躇するのが当然である。しかし①圧倒的な権力を手にして自ら手を下さなくても誰かがやってくれる段になると途端に残虐性はストレートに表れることになる。自分ではできなくても誰かがやってくれるから。つまり命令できるから。
 しかしそういう残虐な行為を命令できる本人をして「なんて残忍な」というのは的がズレていると言える。というのは誰だって頭の中に残虐なことなどいくらでも考えられるが、誰もそれを敢えてしようとしないだけのことであり、そんなことをわざわざやらないのである。それをわざわざやるというのが①の権力に対する不慣れを感じさせる。
 しかし戚夫人に対してやったのがいわゆる残虐な行為であるとマイナスな評価を下すとすれば、功臣の韓信を誅殺するとなるとその迅速性や災いを未然に防いだとなり有能であると考えられる。そのどちらも残虐という一言でくくれるのだが、それは同じ性質がたまたま違う方向を向いたがゆえにいろいろ言われるわけで、その本質としては決してそこまで大きく違ったものだとは言えないだろう。ここでの結論としては下手に有能であるがゆえに不安が強いということ、そしてだからこそ手を迅速に打ったということ。そして戚夫人に関してはそこに今までの復讐という感情が乗っているということは言えるだろう。

 ④保守的である
 保身に長けていると言うとマイナスだが、隙を見せるとすぐやられかねないのが乱世であるとなると保身に長けているというのは誉め言葉だと言える。要はしっかりしているということである。いかに政敵となりかねない相手を蹴落とすか、そして身内を高位へと就けるかという意味では、後々大乱を引き起こすきっかけとなり、皮肉にも呂氏が駆逐されるきっかけを作ったともいえるわけだが、しかし妥当な手を打倒に打っているという点は評価に値するだろう。そういう意味での猜疑心ということであれば、これは劉邦にも共通するといえる。


 ということでいろいろ考えてみたが、要するに言いたいことは①~④の各所で述べた通りでありまとめてみると。
 権力は絶大だがその権力に対して耐性がないということ。不慣れであること。
 下手に働き者であるがゆえに目端が利いてよく不安を引き起こすということ。
 そしてその前提ができた時に自らの不安を解決しようとして迅速にとなると命令を下すことになる。言われたことに従う側ではなく命令する側であり、他人の意見を聞く必要はないが思ったことは命令としてすぐに口に出せる立場であるということ。
 そしてそれらの手が感情的でやたらめったら支離滅裂に打たれているわけではなく、むしろ逆で自らや一門の繁栄を願って打たれている、つまり意外としっかりしているがために手を打っているということであり、それがきっかけで一門が駆逐されることになるというのは完全に手が裏目であったということ。

 そういうわけなのだが、別に呂后というのは歴史書にだけ出てくる変わった女であるというよりは、ある一定の条件が満たされるとふと現実にも現れ得る存在であり、ある意味再現性のある現象として考えることは可能なのではないかというようなことをふと思ったという話。




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