例えばアイスとジュースが一個ずつある。
好きな方を選んでいいよと言われたとする。
じゃあアイスと言う。するとその残ったジュースは誰かのものになる、ということはわかっている。しかし今アイスを食べたいのでアイスを食べることを選んだ。
アイスを食べ終えた、ああ満足だ。ふと目をやるとそこにはジュースがある。それはオレが選ばなかったジュースであり、オレはアイスを選んだ以上もうジュースを手にする資格はない。しかし、それをじゃあ手にするべき男、仮にAとすると、Aはそのジュースを得る資格が果たしてあるだろうか。そもそも誰がオレにそれを飲む資格がないと決めることができたものだろう。この理屈はオレからジュースを奪うために仕組まれたかのようであり、無効とされるべきだ!
そうしてジュースの缶を開けてしまう。
・選択肢は二者択一で、アイスを選ぶということはジュースを選ばないことであり、ジュースを選ぶということはアイスを選ばないということである。実に単純だが、内心はそう簡単に動いてくれない。己の得られなかった夢を、見果てぬ夢を他人が手に入れることを、人はそうたやすく受け入れることができない。自らはアイスを選んだわけであり、その選んだことによる恩恵を享受していながらも、その味わいの甘美さを堪能していながらも、ジュースを選んだ先の人生も同時に手に入れたいと願う、しかしそうした不実さが今後のアイスもジュースも失う、つまりそもそも自分自身の信用を損なう結果になることは思いもよらない。
ある意味、文学という他人の人生を追体験するとか他人の感覚を味わうという方向性というのは、こうしたスケベ根性に基づいているように思えてならない。
・アイスとジュースで言うと実にしょうもない話だが(笑)、こういう心の動きというのは人ならではの動きだと言えるのではないだろうか。
例えば宝くじを買えるとする。オレは宝くじなど買わない、あんな期待値の低いものを買うのはバカのやることだ、第一オレはそこまでがめつくない、と歯牙にもかけない。澄ました顔で通り過ぎた。
ところがAは実は少数買っていて、しかも大金が当たったとする。それを聞いて心が動転する。もしもオレがあの時行っていればそれはオレのものだったかもしれないのにと思う。そしてAは愚かにも、無防備にもそれをオレの目の前に置いたままどこかへ行ってしまったとする。
こういう時、「オレ」の心というのは許せないことで持ち切りになっている。あのAという男がそもそも宝くじが当たるような資格がある男だろうか?あのクズに大金が入っていいものだろうか?そもそも少数買ってかつ大金が当たるなどという僥倖があいつに……つまり「選ばれし者」があいつであっていいものだろうか?(まあそもそも買わないことを決めた時点で自らには全く資格がないのだが)いや、よくないだろう。あいつはそんな資格のないクズで……事実ここに置いたままどこかへ行っている。
ここで心の動く方向性は二通り。
あいつにはその資格がないからオレが貰ってもいいはずだとなる。
もう一つはまるでこれ見よがしにオレの前に置いていったあいつは選ばれていないオレを愚弄しているんだとなって殴る、危害を加える流れとなる。
・話は極めて簡単で、宝くじが当たるやつは宝くじ売り場で並んだやつだけだ(まあ落ちていた宝くじを拾うとか他人のをもらうこともあるにはあるだろうが)。ところがそこで並んでいない、並ばない人生をそこで選び取っているにも関わらず、人は並んだ場合の結果も欲しいと思う。澄まし顔で通り過ぎつつも、宝くじを買った結果も欲しい。しかし現実に得られるのはどちらかである。買って当たって喜ぶ、買って外れて買わなかったやつを見ては恨みごとを言う、買わないで通り過ぎる、買わないで当たったやつを見て僻む。そして文学性がスケベ根性に基づくとすればこうした結果はすべて肯定されるかもしれないが、これを現実でいちいち肯定していくとすれば世の中人格破綻者ばかりになりかねない。
ここで言いたいことは一つで、先日の話の大谷じゃないけど、自らの選んだ道でありその決断を愛おしむということが人にとってものすごく大切なことで、文学性というスケベ根性に対抗し得る道なんじゃないかなあということ。酒にビールに焼肉寿司と魅力的なものはたくさんあるけど、そうした暴飲暴食の道を選ぶっていうことは楽しい道であり、それを選ばないってことは険しい道ではある。そういう道を選んでいて「人生損してないか?」と思うのは極めてまっとうな疑問なんだけど、多分人はそのどちらの道を歩んでいても後悔するようにできているように思うのだ。
そしてそれは「より後悔の少なそうな人生を生きよう」なんてそれっぽい殊勝な心掛けをしたくらいで解決できる道ではないし、そもそも何十年後を予見できるほど人が賢い生き物だとも思えない。じゃあ何がこれに起因するかって、決断すること、選ぶことっていうのがそれくらい重いものであるし、そういう意識が足りないし、選んだその後の人生をケアすることもできていないからなんだろうなあと。人が一生かけてやることなんてのはまあ大体そんなものなんじゃないだろうか。
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