応援と羨望






 連日大谷選手が記録を塗り替えており非常におもしろい。
 おー今日もホームランか、50本といわず60本くらい打てばいいのに。まあニュースだけ聞いてる分には気楽なものである。しかしこれが実際にやる側になると話は全然違ってくるに違いない。


 ・野球というものに触れる人間はたくさんいるが、しかしみんながみんな大谷選手のようになれるわけではない。どこかで諦めたり挫折せざるを得なくなったりといろいろな事情で徐々に野球から遠ざかっていく。甲子園はどうなのか、プロはどうなのか。はたまたメジャーではどうか。バッターとしてはどうか、ピッチャーとしてはどうなのか。オレなんぞは全く関わったことが無いから気楽なものだが、恐らく関わっていてそれがいかに大変で才能を要求されて運不運もあって。いくら一生懸命やっても届かない境地みたいなものを痛感した人ほど切実なものはあるのだろうし、そういうものは下手にプロであるだけに、あるいはメジャーでやっているだけにいやでも痛感させられるものはあるんじゃないだろうか。
 応援する、なんていうといかにもお気楽な感じだがそれは部外者というか門外漢だから仕方ない。よくわからないんだから。しかし関わっていると少なからず自分の内に湧き上がる嫉妬や羨望の感情との戦いが起こったりするのだろう。巨人の中田選手なんて4番やってた頃に自分と変わらないくらいにホームラン打ちながらしかもピッチャーやってることに対して複雑な感情を持っていたようだし、そういう湧き上がってくる負の感情との戦いみたいな葛藤が自分としてもかつてよりもよくわかるようになっていると思うのだ。人生重ねた結果が負の感情への理解というのも寂しいものだが(笑)


 ・ある人が大谷選手は酒を全く飲まない、食事も徹底的に栄養を管理しているといった話を聞いたときに、え、でもそれ人生全然楽しそうじゃなくね?と言っていた。非常によくわかるなと思った。食べたいものも食べず、飲みたいものも飲まない。それの積み重ねが人生であることにどれだけ我慢できるか。まあそれが苦であるならとっくにやめているだろうから本人は楽しんでやっているのだろう。


 ・そしてこうしたことを経た結果として、あるいは経ない結果として、人は応援を選ぶのか、羨望を選ぶのかというのは非常に難しい問題だと言える。
 オレみたいに雑に見てあーがんばれよととりあえず思っているやつもいる。
 雑に見て、ちっ、オレが野球やってればもっといけるぜと思う人もいる。
 野球に関わって、それがいかに大変かを知っているからやっているやつを応援したい人はいる。
 かと思えば野球に関わってそれがいかに大変かを知っているからそのことを受け入れられない人もいる。
 要素としては様々にあるが、結果としては単純で彼を応援できるか否か、嫉妬し羨み蹴落としたいと思うか否か。非常に単純である。そしてなぜかそうした単純な結果が出てくる。


 そしてこうした流れの果てで、そんなストイックなことをしているのは実に可哀想だ、それは洗脳だ、一刻も早く彼をそのストイックな努力から解放させてやりたいとどうにかして足を引っ張らないと気が済まない人がいる。自分にできること、すべき努力をすればいいだけなのにどうしても他人が頑張っていると気が済まなくなって「親切心から」破壊や妨害をし始めると。こうなるともう応援や羨望どころの話ではなくなる。そしてそういうことは、つまりそういう心は意外なほど世に多かったりするのだろう。



 別に人間英雄や偉人に必ずしもならなくてはならないことはないだろうが、お節介や親切心から他人をなんとしても蹴落とすと。明確な嫉妬なんだけど、それを親切心でくるみ自分でもわからないようにして妨害してスカッとするようになるまでは人間落ちぶれたくないものだと思う。




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