ここ何カ月、いやここ数年自分の中でモヤモヤとしているものがあって、それに対して思考をかなり引きずられることがあり何らかの答えや何かを考え出さないと自分の思考がまずい、それに健康面においても非常に良くないと思ったのでそこそこまとめてみることにする。
あらかじめ断っておきたいのは、ここで差別を全肯定しようという意思を持っているわけではないということ。例えば昨今のアジア人差別やいわれもなく暴力を振るわれたり、住所によって不当な差別が行われたりすることは私の望むところではないし、そういう意味では全肯定しようとは思っていないということ。
しかし「差別はいけない」というこの頭でっかちなお題目は一体だれが決めたのだろう?
今にして思えばかなり粗雑ででたらめなお題目であり、とっととこの障壁をまず外して考えるべきだったのだが私自身頭でっかちだったに違いない。そういうスタンスで話を進めていきたい。
・アウシュビッツでは多数のユダヤ人が収容されていたということだが、解放後彼らの行動に顕著に見受けられたのが小麦畑をわざわざ横切って横断することであり、そういう者が多数いたということがヴィクトル・フランクルによって報告されている。彼の推察によると、普通に暮らしていた人がいきなり収容所に送られて命の危険ギリギリの生活を送ることになり、暴力に耐え、命の危機に耐えて暮らしていたと。そういう人が急に解放され、そしてその外で生活をするようになり、しばらくすると怒りを感じると。なぜオレはあんな生活をしていたのにあいつらは平和でのどかな生活をしているんだと。それが許せなくなる。そうなると、オレには権利があっていいはずだと。彼らの生活を踏みにじる権利があっていいはずだとなり、少なくともあの小麦をちょっと踏みにじるくらい大したことがないはずだ、許されていいとなり、彼の中でそれは許され得る権利となる……そういうことが書かれていた。
まあ敢えてアウシュビッツやフランクルを引用するまでもなく、この世界にはずるがしこいやつや意地の悪いやつはいる。そしてそうした行動の根拠とはと考えていくと、確かにそれらしいものが発見されることがある。確かに根拠あって行動ありということになるが、そういうものを向けられた人間は思うわけだ。
「なぜオレに向けられる必要がある?」そこには全く理由などない。ただ気が向いたから、むしゃくしゃしたからスカッとしたかったから程度のものであって、他に何もなかったりするのだ。で、思うことはそういうバカバカしく下らない気まぐれにいちいち付き合ってられるかということである。
・オレが1000万超の被害を被ったのは、今それを振り返ると相手が障害者だったからだった。いやそんなことは関係ない、人は誰もがんばらなければならないし、頑張った分の結果はついてきていいというのがオレの当時の考え方だった。障害とか関係ない、人としての生き方だと本気で思っていた。しかし障害者特有の……いやそういう言い方も失礼だろう、そうでない、頑張っている人も現にたくさんいるのだから……底意地のひねったものがあり、それは全く根も葉もなく暴発した。普通に何の苦労もなく生活できている人間が許せなかった。いやそれどころかそういう人間に支えられている……それはつまり支えられなければ生きていけない人間ということを意味した……ということも許せなかったに違いない。従ってオレに対して復讐する権利と動機は十分にあったということだ。
この話の奇妙なのは、以前も書いたが見捨てた人間は当然恨まれているが、助けた人間も同様に恨まれていたということだった。見捨てた人間が恨まれるのはそこそこわかる気もするが、なんなら助けた人間がそれ以上に恨まれていたのは当時はわからなかったが今ならよくわかる。それによって自尊心はズタズタに引き裂かれていたのだ。
食い代など五年分の経費をすべて踏み倒してとんずら、恩を仇で返すを地で行く行動だったが、今なら納得できる。
「まああれは障害者だったから仕方ない」
というように。
・じゃあこの話の結論として何が導かれ得るかということである。
それはつまりオレは何を反省し、一体今後をどう生きていけばいいかということと同義でもある。
オレは差別はそれなりに有効で合理的なものなんじゃないかと思い始めている。それは冒頭にも書いたように根も葉もないものはそりゃダメだろうが、それなりの合理性が導き出せるものはそこそこ必要だし有用なんじゃないか(いや、なんならみんなそこそこそれを経験知として活用しつつ生きているんじゃないか?)ということである。
例えていえばイラク戦争。少し古い例だがあの戦争でイラク兵が投降に見せかけてアメリカ兵を銃撃する事件が起こっていた。手をあげてやってくるので投降かとなるが、そこを撃たれると。となるとアメリカも手を打たないといけないから、投降してきたイラク兵は裸にして連行すると。そういうことをやっていた。まあこれは後々差別問題などに繋がっていく例ではあるが、アメリカ人も差別云々より前に死なないためにどうするかっていうのでイラク兵を裸にして連行していたわけで、差別より前に自分の命を守るなんていうことは当たり前と言えば当たり前の話ではある。それがその後の差別に繋がっていくとしても、「イラク人は裸にする」というのは言ってみれば手放しの差別というよりは、合理的差別という側面はあるといえるだろう。これが「裸にされるような人間がイラク人」となると話が全く違ってくるのだが。
ここで重要なのは、普通に投降しようとする人間と偽りの投降をしてアメリカ人を銃撃しようという人間をこれによってきちんと分けられているということ。もしもここでやれ人道がとか差別はダメだとか言いつつもしも何の手も打たずに犠牲者を増やす一方だったならば、愛と自由のアメリカというよりも何の手も打てない暗愚なアメリカという印象になったのではないだろうか。
そういう概念であり価値観というのは決して差別ではないのではないのかなあと思うし、そもそもが差別という概念そのものにもそうしたものに対する警鐘とか言った意味合いは当然当初はあったわけで、決して今の言われるところの手放しに悪いというようなものではないのではないのかと思うのだ。
・そういうわけで、自分の中にも差別はダメ絶対という謎のくくりみたいなものがあってそれが長年自分自身を苦しめていた気がするが、でもそういう意識さえあれば当時のオレは転ばなかっただろうし、今後のオレも転ばないのではと思うのだ。そういう意味での差別的な見解あって人と出会うことがダメというのは恐らく「転ばぬ先の杖」の一種であり、差別自体に対していろいろ言われることは多いのだけどその本質は転ばぬ先の杖なんじゃないのかなあと思うのだ。
なので、知識先行の差別ダメ絶対派の人は多数いると思うし、オレもついこの前まではそっち側だった気はするのだが、今のオレ自身は経験に基づく差別はそれはそれでかなり合理性をもっているものだと思うし、何の非の打ちどころもない、なんなら転ばぬ先の杖として非常に有効に機能し得るので言うほど悪いものなのかなあと。
なんならもっと10年以上前から持っていれば転ばなくて済んだのに、全くバカな話だということを思っているところ。
そういうわけで、繰り返しにはなるが根も葉もない差別とそれに基づく他者への加害行動は非常に良くないとは思うものの、そこそこ合理性があってこれは自分の身に禍が降りかかりかねないなと思えるような場合、差別や偏見は意外と自分の身を守ってくれる役割を果たす場合があるということ。というより、それらのそもそもの役割っていうのは転ばぬ先の杖として我々が痛い目に遭わないために必要で重要な働きを果たしてくれるものだったんじゃないだろうかということを書き加えておきたい。
これをかいたことによって不思議と胸のつかえが消えていくような、溜飲が下がるような思いがしている。ああーオレめちゃめちゃストレス抱えてたんだなあと(笑)
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