昨日の話を考えていたら、はなさかじいさんの謎がふと解けた気がした。
二十年来考え続けてきている、けっこう重大な問題の一つである。
・といってもそんな謎を持つような場面がはなさかじいさんにあったっけ?ということだが。
その謎というのは、なぜ正直じいさんと意地悪じいさん……二人を対比しているにしてはなぜ正直と意地悪という言葉が対比として用いられるのかということである。普通なら正直と嘘つきとか、意地悪なじいさんとそうでないじいさんとかいろいろやりようがありそうなものだが、昔話というのは明らかにこの二つを対比として用いていながら一見すると全然対比になってないという例が多数ある。これがなぜなのかがよくわからないということである。
・これを解くヒントの一つは中国と日本の昔話のスタンスが全く違うということにあるとはいえる。中国ならやれ何年になんとか帝がいて何とかの乱があって……みたいないわゆる歴史らしい歴史だが、日本にはその要素が希薄らしいということがある。歴史をきっちり示すことでそこからの教養を学び取ろうとするのが中国ならば、日本の方はその要素がどうやら極めて希薄らしいということが言える。一応中国にも「守株待兎」などの歴史とはほとんど関係ない故事もあるにはあるが、そういうものを考えても日本の昔話の事実との関係の薄さは特筆すべき何かがあるのではと思うのだ。桃太郎だの浦島太郎だのは発祥の場所さえ定かではないらしいし、そうなると歴史とか事実としての側面はそこまで重視されてはいないが、とりあえず言えることはそこから汲み取れる教訓だけはどうやら重視していたらしいということである。
そうでない例として金太郎が坂田金時という武将になり、この人が源頼光と共に酒呑童子を退治したとかいう話があるそうだが、日本に伝わる昔話の中でこうして昔話が歴史に繋がっていく例というのは極めて稀なのではないかと思える。まあそんなことを思いつつ時々昔話を読んでみるのだが、まあこういうことが役に立つことは生きていて一生に一回あるかないかくらいのものだろうし、まあ肩ひじ張ってやるような話ではないのだろう。そもそも別に専攻だったわけでもないので、あくまで趣味の範囲の話である。
・ということで冒頭の話に戻るが、なぜ正直と意地悪とは対等な条件に並べられるのかということである。まあこれははなさかじいさんに限らず、こぶとりじいさんとかかちかち山にもみられることではあるのだけど。
一つ考えられるのは、この話を構成した人にとっては、そして当時の人々にとっては恐らくこの条件というのは対等に並べられてもおかしくない何らかの要素を持っていたのではないか、そして現代人がそれを見てもそれがぱっとわからないがためにこうした違和感に繋がっているのではないかということである。
そしてそのカギとなるのが先日の話にあった猜疑心なのではないかということである。
・ポチに言われて何も考えずにしたがって穴を掘る、すると小判が出てくると。
これというのは言われたことに素直に従う、するといいことがあるという極めて単純な構図だがこれによって正直じいさんは確かに正直であるということになる。
だが例えば金の斧の話などでは、正直にすべて話した人は斧を没収されている。つまり「正直」というのはもう一つの要素であり裏の条件を持っていることが明らかになる。つまり内心も寡欲であり、寡欲であることをそのまま伝えているが故に初めて成立する「正直」というものはある。その一方で、自らが強欲であり、ウソをついてでも斧を貰おうということを「正直に」伝えたならば斧は没収されているのだ。
つまり正直というものはそれだけでは美徳でも何でもないということがわかる。あくまで条件付きの正直であり、その裏条件を満たしてこそ初めて正直じいさんは正直であるということになるわけだし、斧の話は確かに正直ではあるが、その前に強欲が先に立つので正直であると評するにも値しないということになる。
続きはまた。
この記事へのコメント