人の話を素直に聞くことが大切だ、ということについてはいろいろな人がいろいろな場所ですでに言っているものだから敢えて言うまでもないものとは思うが、同様に人の話を聞かぬのが大切であるというのもある。聞くからいい風になるのもあれば悪い風になるものもある、かと思えば聞かぬからいい風になるものあれば聞かぬから悪い方向性へというものもある。ということはパターンとしては単純で全部で4パターンあり、25%の確率でこのうちのどれかに入るということになる。となればまあどれを選ぼうとどうなるかは分かったものじゃないので、要するに全然重要でないからあまり深く考えないのが良かろうとなりがちではあるが、皮肉にもその選んだ選択肢によって最も悪い方向性へと流れているのにそれを全く改善することができない例というのは多々見受けられるように思うのだ。
聞くことを選んだ人が聞きすぎるがゆえに悪い流れへ陥っているものもあれば、聞かないことを選んだ人が全く聞かないがゆえに窮地に陥る場合もある。
・しかしこれを改善するとして、聞くことを選ぶ人が聞かないようにするということは比較的容易いように思うが、聞かないことを選んだ人が聞くことを選びなおすことはほぼ不可能だと思える。
年齢を重ねる、それも70、80、90となるにつれて耳も遠くなり話はより不自由になっていく。この状態というのは話をほぼ全く聞かないことを選んだ状態とそこまで変わるものではないし、結果だけで言えばそこまで大差のあるものではない。一番重要なのはそのどちらにしろ人の話はそこまで重要でないという姿勢においてはそこまで変わらないということだろう。耳が遠くなるという状態の話が人の話は重要なものではないという姿勢の話と重なるのは奇妙ではあるが、本当に人の声は重要だと思えばメモでもして書き残しをしてでも留めようとする。そうでないということは、人の話は重要でないという姿勢が出ているものと考えてもそこまで違いはないのだ。
・これがさらに重症になると人の意見は必ず裏があると考えるようになる。
例えばクマが出たとかイノシシが出たから行くなと伝える。えーそりゃ恐い、じゃあ今は少なくともやめとこう、最悪の場合を避けようと普通はなるが、この場合は全く異なる。
いや、この人がこのタイミングでこれを言うということは逆で、そういうことで何か隠したいお宝があるはずだ、人を遠ざけてお宝を独り占めしたいわけだ、という結論になる。そうなると真逆の結果へ、つまり今行かなければならないと出力されることになる。人の意見は従わないも度を超すと人の意見には裏がある、悪意がある、オレをはめようとしているとなる。ここには人への猜疑心しかない。こうなると今クマが出てるから行けという露骨な「死ね」とでも言いたいかのようなことしか言えないが、まあそれによってへそを曲げて行かないという選択肢を取ることとなるだろう。まあこの場合は何をしても嫌われるのでクマが出ようと何が出ようと言うだけ無駄であるのだが。
これというのは耳が遠くなった人にも時折見かけられるものであって、人はいいものだと思えばこそメモも取るというものだが、人は悪意を持っているとなれば聞こえたわずかな言葉からも悪意を読み解くようになり始める。悪口を言われているんじゃないか、皮肉が入っているのではないか、と不安から疑心暗鬼に陥り、人を疑い疑惑の目を持ち始めるようになる。高齢で忘れっぽくなったとしても、この印象は非常に根強く残るらしいことも非常に厄介である。
ここまでいくと人を疑うから落とし穴にハマるのか、落とし穴にハマるような人生を送っているから人を疑うのか分かったものではない。重要なのは自分がどうかではない、すべては他人のせいであり、他人が悪いと思っていればこそ救われる。猜疑心とは常に100%救われる答えであり、だからこそ一度陥るともう絶対に救われない。
・そういうわけで、聞くにしろ聞かないにしろそこまで大きな問題になることは普通はない。特に聞く道を選んだ場合はそこまで致命的なことになることは少ない。
しかし聞かない道を選んだ場合はその先には巨大な猜疑心への道が開かれており、ここまでいくと人生を引返すことはほぼ不可能、そして触れ合う人すべてを恨み、憎み、呪っていく人生になると思われるので、自己責任とはいえ聞かない道を選ぶならばその覚悟は必要だろうと思われるのだ。そういう道が高齢化によって万人に平等に開かれているというのもまた皮肉な構造だと思うが、個人的に思うことは別にそれはそこまで重要な問題ではなく、生きてきた道によって既に未来が決定していると考えるのが妥当なんじゃないだろうか。
この記事へのコメント
ココ
この記事読んだら、そうかそういうものかと腑に落ちたし自分は聞く聞かないどれを選択するかまだ考えるチャンスもあるんだなと希望を持ちましたよー。
ありがとうです^ ^
Kata
それが何気ない会話であってもそうなのかなぁと。
私自身は、人に個人的な詮索をするような話はしませんし、人に何かを伝えようとするときは、簡潔にかつマウント等の余計な感情が入り込まないように気をつけてはいるつもりです。
ただ、人の話を聞く聞かないというのは、相手によってだいぶ変わってくるというのが正直なところです。どうでも良いことをベラベラ喋る人の言葉は聞く耳を持つべからず!という態度を密かにとってしまいますが、為になることを言う人の言葉というのは、自分の反省•観念ノートなるものに書き込んでしまいます笑笑
それが後々、人生のフラグだったりすることもあるのかなぁと思ってみたりしてます。
きんた
人の意見を聞くっていうことが聞かされるということになって露骨な下だと思い込む文化ってのもあって一概にはなかなか言えませんが、まあなんにせよ聞くっていうことは重大な選択の一つだと思います。
松下幸之助さんは実るほど頭を垂れる稲穂かなとか詠んでましたが、偉くなればなるほど他人の意見を聞けるようでありたいとは常々思うところです。
きんた
メモの習慣は非常にいい習慣の一つだと思いますよ。日記をつける人とかもいますが、ああいう習慣が人生で非常に大切なんだと思いますね。
マウント文化は非常に厄介な文化ですよね。日本の文化の中でも特に醜悪で足を引っ張るだけのものでしかないと思っていますし、こういう文化はとっとと解体されていいと思っています。
結局何かって、人は差別はされたがらないが差別はしたがる生き物であると。
オレは優秀であると思えるのであれば喜んで他人を突き落とす面があると思います。
結局いくらなんだって言ったところで人はそこまでサルと違った生き物ではないし、またそういうものを打ち立てようという気概もない……それが人ということなんでしょうかね。