ふと思ったことだが、この世界というのは意外と起きた出来事の羅列によってできているわけではない、それどころか起きなかったなにかによって支えられつつ出来上がっている面が相当大きいということだった。しかしそれを我々は起きた出来事を数珠つなぎにして考えたい。そしてそれはつまりそのようにして我々が考えたいということでもある。評論なんかでは海を見てここには陸地がないとかいうのは最悪の評論だと誰かが言っていたが、その最悪が意外と正しかったりするんじゃないだろうかということでもある。
・例えば何かを見つけたとする。
あ、これそのままにしておくと必ず~が困るヤツだと気づいたとする。そこで手を打つ。打つのだが例えばああ今日も終わったなあ、野球でも見ようかなあなどと思ってビールでも飲みつつ、そのことをすっかり忘れてしまう……しかしそれによって確かに何かは変わっている。その~さんはそれによって危うかったところが確かに助けられたのだ。しかし誰一人そのことを覚えているやつはもういない。そういうミスと誰かによる未然に防ぐなにか、気配りとか優しさの間で現実が形作られていくと考えるとする。
だとすれば、本人ではないところでそういうことをやる人間が10人20人いるというのは、ある意味では城を中心とした外野の陣地がしっかりと埋められている、敵襲とか奇襲を未然に防ぐ体制がしっかりと築きあげられていると言ってもよい。そういう意味では確かに人は財産だと言える。徳川家康のいうところの「人は城 人は石垣 人は堀」というのは恐らくこの概念に非常に近いものに違いない。人がいるということ、それも自分の気づかぬところ、目に見えないところで何かをやっているということがいかなるものかということを家康は恐らくよくわかっていたに違いない。
「人財」なんて最近では言うけども、あれは安っぽいというか、目につく範囲をしっかりと守っているな、俺様の役に立っているな感があるのでここでの意味合いとは全く異なる。
・となるとこれと真逆の減少も当然あることになる。
あ、これそのままにしておくと必ず~が困るヤツだと気づいたとする。
しかし何もしない、放置する。この放置するとか無視するという意味合いは何かをするというのと全く異なる意味を持つ何かである。
いやそれどころか、人はそれが「いい具合に」回るものであることを確認して悪い方に流れるようにするかもしれない。
あれ、ちゃんとやっておいたんだけどなあと思っても翌日になってそうなっているんだからそれはもうどうしようもない。以後気を付けますとでもいうしかない。
・だから大まかに言ってここでの手は三つある。
事態を好転させるような手を打つ。
何もしない。
事態を暗転させるような手を打つ。
この三つということになるわけだが、事態を好転させましょうとか、そういうのが性格がいいよねとかそういうことがここで言いたいわけではない。大体の事態は66.6%は悪い風に流れるようにできているということだ。そういう中で起きる33.3%は果たして単なる「事実」に留まるものだろうかということだ。確かに物事をすべてこなすというのは優秀ではある、そして事実を元に考えるならば彼は優秀だろう。しかし時としてその優秀という評価が事態を確実にすべて言い表せるものではないということでもある。
・まあ結論だがこれで一番思ったことは、そういうことをわかっていつつもそれから遠くかけ離れた人間、それどころかそれを知って悪用しようとすら考えるような人間に自分が堕したことによって、初めてこの当たり前の出来事の尊さが意識化されて自分自身によって認識されているということが、これこそまさに人生の皮肉だなと自嘲したという話。
まあ人生無駄なものはないというし、オレ一匹程度が悪に堕したところでそれも無駄ではないってことだろう。
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