溺れる犬を棒で叩くな






 最近ここらへんのがやたらオススメに上がってきていて、なんだろうオレ全然関係ないんだけどなあとぼーっと見ていたらはっとしてしまった。関係ないどころじゃない、むしろ今オレのこころの中にあるもやもやを的確に捉えていた問題だったという。


 ・前々から人助けの記事を書いてはあげているのだけど、この関連ってけっこう日本の核心めいたものが混在していて非常に興味深いと思うんだけど、そこに興味を向けるどころじゃないくらいに心の中が混沌としている真っ最中。じゃあ何がその混沌をもたらしているかって、ここらへんの事情ものすごく闇が深いと思うわけで。
 結果的に言えば人助けは失敗したしその代償を覚悟していたほど食らっている真っ最中なんだけど、この話題になると人の様子が一変する。それももうもうものすごく急変するわけで、何かあるなと思うところではある。


 なんなら人を騙して逃げるという行為は武勇伝になり得るような話でもあるし、騙されるヤツはバカですと面と向かって説教垂れるヤツもいる。
 オレはそんな人助けなんてバカなことやったこともないぞと、なんならそういう場合オレは必ず見捨ててきた人間だと威張る人間もいる。
 人生減点主義という人にとって見れば、そんな人生から点数減らすようなバカなこと敢えてやるヤツがバカという姿勢を取る人間もいる。
 そういう人間ばかりを目にして(いや本当にそういう人間とそういう話ばかり聞いてる)、オレはなんか今までの従来の見方をガラッと変えているわけなんです。
 はっきり言えばオレが向き合ってきたのは人間のクズだったかもしれない、だけどオレに説教垂れているその当人も何ら変わりない、一皮むけばただの人間のクズだった、それがたまたまそうなってないだけだということがはっきりとわかってしまった。たまたまそうなってないだけであって、状況が変わればなんてことのないことを繰り返すだけの存在でしかない。ただ長く生きてきただけで、人生とは何かなんて一ミリも考えたことのない人生が説教だけは偉そうに垂れるものの、その説教自体がオレは人間のクズだと豪語する様に鳥肌が立つほどで。そういう様をまざまざと見せつけられていると、じゃあオレは今まで一体人生で何を目指してきたんだろうと目を覚まされるほどで。


 オレが人生掛けて敵として戦わなくてはならない人間ってこういう人間じゃなかったのか?と思い知らされていると。人の不幸は蜜の味で自分の人生論や武勇伝をひけらかし、溺れる犬を棒で叩いては悦に浸る。なぜそれをオレは他人をなんとかしようとか、世界を良くしようなんてバカなことを考えていたのだろうかと。全く逆なんじゃないかと思った。そういう人間を一人でも多く減らした方が世の中もっと良くなるはずだと。そういう異常な実感があった。今もうまい言葉で言い表すことはできないけど、オレが今まで見ていた世界は実は180度真逆なんじゃないのか?。少なくともそういう塔に対してもっと高くなれとかやっていた努力というのはこの人たちの「武勇伝」のためでしかなかったんだという異常な虚しさもあった。それはもうあまりにも世界観が違いすぎて愕然とするほどのものだった。


 ふと、オレが広島の豪雨災害行った時のことを思い出す。
 坂というちっぽけな町だったが、オレは当時自衛隊だったので、災害復旧は当然のことだったし、当時連発する豪雨の中でも、また豪雨がきたら土砂崩れがくるかもしれないなんて状況があっても来るならなんぼでも来いやくらいの意気でやっていた。無鉄砲さか豪気かよくわからないが、そこには充実感があった。
 そういう充実感の元に何があったかって、地域住民の人たちも老若男女問わずスコップ持ってまるでハイキング行くかのように災害復旧に携わっていたというのがあった気がする。災害復旧なんて一円にもなりゃしない、損か得かでいえば明らかな損なんだけど、でも仕事休んででも災害復旧行くと。自分の町が好きで、そこで困っている人がいるから行く。まるでハイキングでも行くかのように行く。それがものすごく印象的で、感動的というとまた違うけどやたらに闘志に火をつけられるというか、負けてられんみたいな意気につながったなあなんてことをふと思い出した。その後身体を壊して今に至るわけだけど、なんというかその充実感から遠くかけ離れた人生やってるなあと思う。


 なんで溺れる犬を棒で叩くな見たいな話やってるんだろうかなあ。ほんとあくびの出るような話だ。



この記事へのコメント

  • Kata

    いつもブログ拝見させていただいてます。ありがとうございます。人の不幸は蜜の味 という言葉は私が非常に不快に、気持ち悪く思ってしまう言葉です。私自身は、人の不幸を喜ぶということを含んだ選択を自身が実際に行動に移してしまったとすれば、その時は自死を選んでしまうかもしれないなぁと思うくらい、卑劣なことだと思ってしまいます。その一方で、人間の本能に嫉妬や自己重要度というものが絡まっている以上、非常に悲しく、恐ろしいと思いますが、これは少なくない人々の本質を表した言葉なのかなと思います。以前ホルオモンさんもほぼ同じことを書いていらっしゃったと思いますが、何を隠そう自身にもそういう面があったことに最近気づいたんですよね。質量を持った鉄の塊みたいに、ネガティブ要素が自身の中にはっきりあることが分かったんですよね。これには、すごく落ち込みましたし、人間のエゴというのはつくづく取り扱い注意な品だなぁと思いました。
    ほとんどの人は認識してるんじゃないかなぁと思いますが、やっぱり、人の不幸を喜んだり、人を呪ったところで自分にメリットはひとつもなく、むしろ自分自身に猛毒をかけているのと同じなんですよね。猛毒をかけて、お金、知恵、健康、家族含めた人間関係等を失ってしまいますよね。これも、ホルオモンさんがほとんど同じことをブログに投稿されていらっしゃったと思いますが笑笑
    逆に、人を祝福するのは、非常にお得な戦略の一つであり、自分自身が最大の利益を得られると思います。人に喜んでもらえたり、貢献できたと感じると、実際に体の免疫力が上がることが証明されてるように(試してガッテンで観ました笑)人を祝福したいというのもまた人間の本能であることには、変わりないんじゃないかなぁと思っています。
    とは言っても、人助けの裏側 のコメントで返信してもらったように、良かれと思ってわざわざ他人の領域に入って善意で助けてあげたことで、逆にトラブルを持ち込まれたり、ぎくしゃくしてしまうことは人間あるあるだなぁと思う次第です。
    長い感想失礼しました。おそらく同じ中学校出身ということに勝手に縁を感じていまして、勝手にホルオモンさんのことを応援してます!!
    2023年05月28日 22:50
  • きんた

    読んでいて最後の一文でズッコケました(笑)
    え、そうなの?!という衝撃にぜんぶ持ってかれましたね(笑)マジで椅子から転げ落ちました(笑)
    そうなんすかーびっくりした!


    私自身自衛隊やっていましたから人助けとはなんぞやってことに関してよく考えるんですよね。前も書きましたっけ、人助けすることが自らの正義感満たしたりだとか。あるいは直接給料もらうってことが、まさに人の不幸が蜜の味であるということであったりとか。そういう事実に目を向けないことが唯一そういった闇とか優越感といった罠から逃れて健全に生きられる道だったりすることだとか。あるいは自分はそういう境遇に陥ってないということがもたらすホッとさせる安堵感という罠だとか。そういうものがいちいち目については自分を指摘してしまうというある意味病的な(笑)傾向ありますね。

    人は人の不幸が蜜の味であるということから誰も逃れられないんじゃないかなあと思ってます。優れた人に対しては卑屈になり、劣った人間を見てはそうではない自分を確認しては胸を撫で下ろす。優れた人を見て失ったプライドを劣った人を見ては回復する。そういう生き物だ、相対的に決まる生き物だってことからは確かに逃れられない。そこからそう簡単に逃げられないほどそれが甘美であるってのはどうしてもあるんですね。
    だとしてもそうして己の至らないプライドを埋め合わせしている相手に対して感謝を感じることはできるはずです。そういう感謝とか慈しみの気持ちがあるってことが、人が最底辺に陥らないために必要な素質なんじゃないでしょうかね。
    そこにまで甘ったれるようになったら人間おしまいだと思いますよ。

    そう、人はものすごく感動に胸が熱くなるようなものを持ち合わせている生き物だと思います。そのためなら命を懸けても惜しくないと思えるほどの。
    そういうものからあまりにかけ離れたものばかり見ているうちに心が荒み澱んでいっているってのを感じます。ひどく虚しいんですよね。


    そうかー。じゃあこのふがいない先輩の死骸を乗り越えて、さらによりよいものを目指していってくれることを私は願って期待しますよ。この文章を読んで大変元気を頂きました。そういうものをもたらせるっていうことが貴方の力なんだと思います。私はできる限りのことは最期までやろうと今思いましたから、貴方も頑張ってくれることを私は願っています。


    2023年05月29日 01:01
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