人助けの裏側






 人助けの本質の一つに、善行を為しているというストレートな実感があるってことは以前にも書いたような気がする。どこにもケチのつけようのない、非の打ちどころのない善行というもの、それをしているという実感、オレは間違ってないというその実感それそのものが人を誤らせる性質を多く持っている。非の打ちどころのないことをしていながらも、結果的には非の打ちどころだらけとなるこの不可思議な現象の本質が何であるかと考えるに、恐らく人助けだとか善行をやっているということ、それによって相対的に人がどのような人であるか決まるというところに問題があるのではないか。すなわち人助けをオレはやっている、オレは間違っていない、それどころかオレは正しい行いをしている、正しい行いをしているオレは正しい人間だ。そういう風に自意識が過大なものとなっていき、歯止めが効かなくなっていく。正しい人間がやっているがゆえにこれも正しい行為であるというように歯止めが効かなくなっていく。ところがその時点ですでにストッパーは破壊されている。そういう種類の歪みみたいなものが多く散見されるっていうのは人助けのある種特徴であり、付きまとう何かであり、なんなら人助けによって人が呪われるだとか祟られるというものの本質なのかもなあと思っているところ。そういう種類の一線の破壊というのはかつての自分自身をふりかえってもかなり強くあったなあと思うのだ。正しい行動をしている人間が間違った行動をしないはずがない。まあなんといっても人間なのだから。正解を数多く出してきた人間が、だからといってすべての行動が正しいかというとそうではない。むしろその正解の多さと成功が今現にやっている行動をミスらせていることもある。しかしそういう場合人はそれを見つけることも指摘することもなかなか難しかったりするのだ。


 ・じゃあこの本質は何なのかって、単純に傲慢であるとか肥大した自意識があるとか、破壊されたストッパーだとかあるのだがいろいろあるのだけどそういうことっていうのはまだ本質だとは言えないものがある。本当にこれは本質そのものだろうなということは、人助けっていうことが相対的に事態を捉えるものである以上、そして自身は圧倒的な正義側に属している以上、やっていることが一皮むけば寄生虫そのものだったりする、まさにそれこそが本質なんじゃないかと思うのだ。言い換えれば「オレは今困っている人を助けてやっているのだ」という意識が、オレはそういう助けられる側の存在ではない、むしろ助ける側の人間であり、一言であれば「エラい」のだと。そういう思い上がりと、思い上がりの本質が実際には困っている人をその困っている事態を見て自らの卑しく醜い正義感を満たしている、そういうところに端を発したものであるのではないかと思うのだ。下手に正義感があるばかりに、手軽に手っ取り早く欠けた正義感を満たすことができるかもしれないが、そもそもそこはそういう正義感だとか感情を満たす場ではないだろうという内省のこころがあればそうはならないだろうが、残念ながら下手に正義感を満たしてしまえるだけにそういうことが起こったりする。
 そしてそういう裏のある親切をされる側は目ざとく見つけるものなのだ。
 ああ、こいつ今寄生虫やってるわ、と。


 ・そうであるがゆえに親切は、善行は淡々となされるべきものであると今となっては思う。腹減ったなあとか、さっさと終わらせて遊びてえなあみたいな雑念は意外と重要だったりする。あるいは自衛官だったらこれだけ働いたら給料いくらかなあ、とか。それを計算するみたいな。そういう露骨な雑念、言ってみれば邪心とか邪念みたいなものは確かに露骨に悪いように見えるが、しかしストレートで明らかにあからさまに悪いのでそこまで問題にはならない。
 むしろ問題化するのはそうではない、人の不幸を見て嘆き悲しみ涙を流し、手を出してなんとかしてやろうというような性質、そういう性質っていうのは本質が見えにくいだけに非常に厄介な結果、というより不幸な結末をもたらすことがある。それも5年10年と長い時間をかけて、全く反省されることもなく生き続けるので、意外と根深くて相当たちが悪かったりする。オレ自身がそうだっただけに、無反省な人助けというものは意外と根深く悪質だったりするところがあり、そしてその寄生虫じみた性質が人を寄生虫そのものに変えるところもあるなと思うのだ。困っている人を助けなくてはという正義感が、困っている人を発見して思わず笑みをこぼすというようなことをやっていては本末転倒だと思うのだが、なかなかそこに気付かないし気づけない。そういう生き方をやっているうちに正義感のゆえに人の不幸を喜ぶという不気味な結果がもたらされることがある。


 どっかのニュースでは意識の高い立派な消防士が、立派であるがゆえに気づけば放火魔になっていたとかあった気がするがそれも納得である。正義感が強いがゆえに人の不幸を喜ぶようになり始め、そして気づけば人を突き落とすことに快感を得るようになっていく。人の不幸が蜜の味となっていく。こうした連鎖を意識しない限り、人は正義感によって簡単に寄生虫に転落する醜く脆い生き物である、ということは言えそうである。よくよく顧みられる必要のある点であるといえるだろう。



この記事へのコメント

  • Kata

    正義感というエゴが肥大化することによって、自分自身が望んで敵を作り出しているという構造は世の中を見るとたくさんありますよね。自分自身にもそう言った感覚がたまに現れます。仏教のヴィパッサナー瞑想的なものに近いのですが、自分にとって良いことであれ、悪いことであれ、成長できることであれ、後退することであれ、いずれにしても、今自分は〇〇を考えているなぁ、〇〇をしているなぁと淡々と観察することが、自分のエゴを観察する良い習慣なのかなぁと思ったりしてます。正義感を振り回したい人たちは実は心の中に強烈な自分の不完全性を抱えていて、それを解消したいがために、エゴが優越感を満たしたがために、そう言った要素を纏ってしまうのかなと思ったりします。そういう人たちも含めて、人間皆が救われてほしいですね。
    2023年05月20日 01:19
  • きんた

    昔は私も人を信じていたところがあった気がします。人が変わることを信じる、多分未来は良くなると。
    でも最近思うのは、そういう場合他人に自分を投影しているだけなのかなと思ったりもします。他者に自分を投影して、自分に見えているものを他者に期待したり。でもそれって自分の拡大でしかないんですよね。そういうことをやめたというのはつまり期待しないというか期待を諦めたというか。良くも悪くもそういう感じかなあと思ってます。
    自分のこと、手の届く範囲内なら100%を保つことができるなら、それをすると。そこだけは守る、あとはもう期待しないし流れを見守るだけ……ある意味そういう隠遁、引退、引きこもりですかね(笑)
    エゴのために他者を叩き潰すことには反吐がでますが、かといって諭すのもトゲが立つしプライド潰されたとつっかかってくるし、結局自分のことしか見えてない人に何かを言ったりきたいしてもなあ……というまあ諦め、それをプラスに見れば多少なりとも賢くなったのかもしれませんね(笑)
    2023年05月23日 00:17
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