糖分が足りない






 この世界が当初思っていたよりもはるかにいいものだと思ったならば、それは恐らく見る目がないからであり。
 この世界が当初思っていたよりはるかに悪いものだと思ったならば、それも恐らく見る目がないからである。
 というようなことをふと思った。
 午前に思ったのが前ので、午後に思ったのが後のだというくらい気分の浮き沈みが異常に激しい一日だった。糖分が足りてないとわかりやすいくらいに考えている内容が違ってくる。地獄の底を恨めし気に這うか、それとも天国を浮かれて飛び回るかくらい違ってくる。


 ・そういうわけなんだが、糖分のせいとばかりにできないくらいに意外と真実を探り当てていたりすることもある。
 言葉で言うならいいもしくは悪いなんて二つしかないくらいに貧相だが、しかしよくよく見ているとそうとは言い表せないほどの広いグレーゾーンがあることがある。しかしこの現実はものすごく少ない言葉で結果を表そうとする。「要は」「要するに」ということが恐ろしいくらいに全く何も要してないことがある。
 そういう場合どうすればいいんだろうなあと思うと、もうこれは単純で正義か悪か。そんなところに行き付いてしまうことがある。なぜ行き付くのかと言えば、我々にとって物事や事態というのはそういう風になるべきものであり、そういう風にわかりやすく要されるべきものであり、そうならなければならないからだと我々が勝手に期待しているからでもある。この頭の悪い非常に粗雑な、言ってみれば理解網みたいなものがあり、これにひっかからないものはそもそも議論するに値しないと。そういう風にみなされる何かがある。


 ・例えていえば①自衛隊では盗みは悪だが、盗むを誘発するような事態を招くような行為をしたとすれば、例えば財布を置きっぱなしにしていたとすれば、それはその人間にも非はあるという言説がある。これはこれでけっこう正しいと個人的には思う。そもそも人が盗むような性質を持っていようと、そういう隙を見せないように日ごろからきちんとしていればそういう事態は起こらないと。
 しかしこれももう一歩進めばこうなる。
 ②事態をもたらしたのは被害者が悪であるためだと。被害者がそういう被害になるようなことをしたがゆえにそうなった、となれば悪いのは加害者ではなく被害者である。よって裁かれるべきは被害者であるとこうなりかねない。こうなってしまうと非常に危ういんだけど、最近聞く諸々の言説を耳にするにつれて、この①と②は全然別物であるということが非常に難しいなと思うようになった。はっきり言えば、①と②の違いがわからないという例が非常に多いなと思うようになった。「悪い」に話を押し込めて満足ということなんだが、これを推し進めると殺人犯も窃盗犯もスルーされて「殺された人間にもそれ相応の非はある」なんなら「殺された人間が悪い」「殺された人間はすべて殺されるだけの非が少なからずあった」「殺された人間はすべて悪人だった」ということになる。そしてこれによって一件落着になると。一件落着どころか話は最も進んではならない方向に進んでいるのだが、それがわからない。
 これは言ってみれば話の筋道における方向音痴みたいなものだが、今どの方角に進んでいるかも全くわからないのに「いいんだよ、人は前に進めばいいんだ!」という一種ポエム的なノリで進むわけなんだけど、それはもう全然前ではないと。何なら今すぐ崖から飛び降りることさえ肯定されかねないような事態になっていたりする。ポエムを解体すしてみると形を変えた善に満ち満ちた「死ね」だったりする。これがノリと親切心と善意でコーティングされているとそれっぽく見えてしまうというのがまた危うい。こうなると自衛隊の感覚というのがいかにバランスに感覚に富んでいたかをかえって思い知るほどの事態だったりする。


 ・しかしなんでこういうことが普通に起きているんだろうなあと思うに、我々の脳というのが……恐らく文化とか社会的な脳の作りがものすごく単純にできているということなんだろうと思うのだ。善か悪か、正義か悪かくらいで成り立っている、そしてすべてはそういう風に二分化され得るし、そうやって二分化され得ないものはまず存在しないと思ってかかって生きているからに他ならないのではないかと。そしてそうなると加害者被害者と合わせて四つしか残らない。加害者は善である、加害者は悪である、被害者は善である、被害者は悪であると。悲しいことに我々はどうもこの4パターン以上のことを考えられるようにはできていないらしいと。


 ・そしてこの単純さというのは当然のように悪用される余地が大いにある。一度悪と決めればそこではもう「常識的に」悪は続く。ところがそういう悪に我々が寄生するとなるとこれはもうものすごく快適に過ごせたりする。そういう意味では、我々の文化というのは非の打ちどころのない完璧な英雄を求めているのだが、同様に完璧な悪も求めていたりするのだろうと思うのだ。そういう作られた悪というものがものすごき圧力で常に求められていたと考えると、今までの人生にものすごく辻褄が合うということにふと思い至ったという話。悪であるということでなく、仕立てられた悪、悪という社会現象というものを我々が常に望み、悪の枠に他者を突き落とすことで満足しつつよりよく生きられるのだとすれば。滅ぶとか衰退する理由は我々自身の内に見出されていい。だとすれば地獄の底を這う理由は意外なほど我々自身の内の方に見出すことができる。
 そういうことを思ったという話。









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