生と死






 ふと思ったのが人が生きているってのは「生」100%で生きているわけだが、年と共にそこに死の要素が混じって「生と死」として生きていくということで、それに伴って生きることの文脈が変わるってのはあり得るなということ。ただ死100%ならそれは普通に死んでいるわけで、そういう状態は考えなくてもいい。となると生100%(=死0%)から生10%(=死90%)くらいまでこの要素はブレるってことになるだろうか。


 ・生きている人間ってのは生特有のがめつさがある。人をおしのけても自らがとなるし、人を踏み台にしてもオレは這い上がるとなる、それは醜いことではあるだろうが、生本来の力強さであり生命力そのものってのは、まるで土から生えた植物が日光を求めて大きく葉を伸ばすさまにも似ている。生というものはそれ特有のがめつさとエゴみたいなものを兼ね備えていると言える。


 しかしそれも年が経つにつれて衰えを感じるようになり、ああ、この体調の下り坂はいずれはオレも死ぬってことなのかなあなどと自省するようになるとそこから生の意味が変わるようになる。つまり、体調とかの意味ではなく、概念とか考え方そのものに「死」という要素が入り込み始めるようになる。つまり「片足棺桶に突っ込んでいる状態」になるわけだが、じゃあこの片足っていったいどのくらいなのかって考えるとまあ10から90%くらいまであるんだろうし、100%になったらもうそっから先のことは考えるまでもないと。そういうことになる。


 ・「オレは生きる!なんとしても!人を踏み台にしても!」と言ってがめつく生きることができるってのはまあいわゆる若さの特権だと言ってもいいだろうし。そこにある生命力の煌めきってのはそりゃ美しいと思えることもあるだろう。エゴイスティックなものに全振りできるということも若さゆえだと。多分我々が美しいという時の「美」というのはこの生命力的なものに対してかかっているんじゃないかなと思うのだ。


 しかし自らの滅びを許容し、死を受け入れ、他人に席を譲る。それっていうのは言ってみれば謙譲の精神みたいなもので、じゃあこれは衰退を意味するものだから繁栄を意味する生よりも劣ったものかというと、どうもそう思えないのだ。多分それらは同じ境地から生まれているものだと思うのだが、衰えを感じても「いや、オレはまだやれる!いける!」としがみつくこともあるだろうし。あるいは譲る精神になることもあるだろう。どちらを選ぶにしても人それぞれだし正しいとか不正解とかはない。


 ただ、滅びゆくものが静かに何も主張せず消えてゆく、そういうものから尊さみたいなものを感じてそこに「美」を見出す文化というものも恐らくかつてはあったのではないかと思うし、現代人からそれがもしも完全に忘れ去られたんだとすれば、多分「オレはまだ棺桶に片足突っ込んでない!」という精神からそれは起こっているんじゃないのかなあ、などと思った次第。




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