で、今回のことをいろいろ思ったのだが、優しさというこの抽象的でむしろ曖昧といってもいいようなものが意外と、本当に意外なほど重要な働きをしているというのを痛感した。どういう感じなのだろう、うどんに一振り入れる程度の七味唐辛子にそれは近いかもしれない。入っている量はごくごく微量、しかし入っているかいないかは雲泥の差。もはや入っていないうどんは食べるに値せず、そのくらい違うものなのかもしれないし、たった0.00001%程度の存在感でありつつも、実はすべてを決定している。そういうものが優しさなんじゃないだろうかと思ってしまった。そのくらい事態は全く違ったものになってしまうということ。
・我々はこの社会を生きているわけだが、まあいろんなことがあるわけで。困ったことや楽しいこと、絶望的なことから希望を持てるようなことまで多種多様、しかしまあブラック企業なんかに努めると性根が腐ってしまうようなことっていうのは多々あるものだと思うのだ。クソ野郎に徹底的にいびられて、どうしてオレだけがこういう目に遭わなくてはいけないと思うことも多々起こる。
しかしじゃあそこでどういう生き方をするか。それを選ぶことが明暗を分けているのではと思う。
一つは、オレも痛い目に遭わされたから他人には徹底的にやろうということ。つまりは己もクズであろうという適応をするということ。これはこれで理にかなっているし、勉強ができ適応能力がある場合はこういう方向性を選ぶ場合もあるのではと思う。
もう一つは、自分が痛い目に遭ったからこそ他人には痛い目にはあわせまいとすること。つまり前者がオレは生き延びてやる、強くなるという意思と決意を意味するのであれば、後者は優しさを持とうとすることであると言える。これは明らかに変な選択ではある。なぜって前者を選んだ方が明らかに得なのに、敢えて優しさを持とうとしているわけだから。つまりはこちらはバカな選択であると言える。
この二つの差というのはほんのちょっと自分がどれだけ意識するかというものであるから、本人次第であると言えるだろうが、どちらを選ぶかによってその差は大きく出る。そしてこれは完全な二者択一というよりは度合いで測られるべきものだろうから、必ずこっちだという風にはなかなか言えないものでもある。
・しかしまあいろいろあるにしても、特に前者に全振りした場合、血も涙もないということになるわけだし、優しさのかけらも持ってないということになるのだが、そうなってしまった場合に他人にしてやれることなどほとんどないということを痛感した。
隙あらば人を蹴落とせ、騙せ、欺け、いじめろ、いやがらせしろ、困るようなことをしろ、落とし穴を掘っとけ、お金はちょろまかせ、できる限り多く搾り取れ……様々な形で出てくることになる。しかしそうであっても、どこかには微かな優しさというものは垣間見られるものであったりする。錯覚であることも多いのだが。
しかしこれがもう純度100%の完全なクズである場合、もはや打つ手立てはない。何なら身の危険すら感じるほどであり、周囲の人の安全にも気を付けなくてはならないほどであるとすれば、距離を取って近づかないことも重要になってくる。しかもその道を選び取ったのはほかならぬ本人なのだ。
だから「優しさ」と一言でいうのは簡単だが、この何一つ具体的なものがなく、抽象的で曖昧でありながらも事態に決定的な違いを及ぼすこれをいったいどういう形で持つことができるのか、持てているのか。これというのはものすごく重要なことなんだと思うのだ。
合理的に生きようと思えば、血も涙もない人間になるのが手っ取り早いのだから。
しかしただそれだけが取り柄の人間に、もはや生きている価値や存在する価値など果たして存在するのだろうか?と思っている。
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