ということで要するに前略カツ丼事件があってオレもいろいろ考えた。
・人を助けるのはいいことだと考えていた。そうやって落ち込んだ人を助けるのは必要なことだと思っていた。誰かがそうしなくてはならないのだと。誰もできないのであればオレがやると。
しかしそうではなかった。オレはどうも自分の考え風に人に期待していたし、世の中そういうものであるはずだ、そうあるべきだと思い込んでいたのかもしれない。
実際は違った。
そうして貯まりに貯まったツケをその総額を示したら、全力で踏み倒そうとしてきた。人助けのつもりが、実際は悪人を一人作っただけで終わってしまった。追い込まれたら全力で請求書を踏みにじろうとすると。まあ人なんてそういうものなのかもしれない。
・結局最後はゲーム課金という結末を迎えた。
しかし「幸せ」というのは何なのだろうか?
オレは救ったんだと思う。そして救われたからうどん屋はゲームに課金できた。それは健康的で幸せというものの一つの形を示してはいないか?
つまりその形というのはこうなる……人の幸せとは、誰かの不幸の上にあぐらをかいてようやく完成するものであると。人を陥れて谷を埋める。空いた穴を塞いでやると。そうして埋め立てられた土地の上にようやく建造物は建つ。つまりは「幸せ」ということだ。だとすれば、人は幸せにならなくてはならない、幸せになるべきだというオレの中にあった何かは、恐らくそこに体現されていた。ただし、ものすごくグロテスクな形の上にだ。
それを望んだのはオレであるのは確かなのかもしれない。いやだって、人を不幸から救おうとしたんだから。そして全力でなんとかし、何とかなったそのあとにあるその形というのは紛れもなく「幸せ」だった……
しかしそれをオレの願いの体現であるというにはあまりにもそれは不気味でグロテスクであり。醜悪で腐臭の漂う何かだった。それをオレは「幸せ」と呼んでいたのかもしれない。
・そもそもたびたび書いているように、この社会というのは何かが根底で狂っているのも確かではある。
牛や豚といった家畜の死屍累々、牛なんて涙を流しながら殺される。
しかしその結果としてあるものは、焼肉パーティーだったりする。そういう180度変わる「何か」がこの世界には確かにあって、オレはそういう何かをここで見た気がする。地獄の苦しみが、次の瞬間には至福の楽しみに変わったりするものなのだ。
確かにそこにあるのは「不幸」だった、それをオレは努力し反転させて「幸せ」にした。その結果をまざまざと見せつけられた。じゃあそこにある「幸せ」とは?オレは最も見てはならないものの蓋を開けてしまったのかもしれない。
・そういうわけで、オレの見ていた世界は真逆だったのかもしれないと思い始めている。
困っている人を助ける……オレはそれを「優しさ」だと思い込んでいた。
しかしそれは当初全く思ってもみなかった結果を生み出した。
今思うことは、例えば券売機を用意すると。で、そもそも券を買えない人は切り捨てる。そしてこういういびつでグロテスクな結果が生じないように手を打つ。それができない人はそもそも切り捨てるという方向性こそがそういう人を生み出さないという意味における「優しさ」だったんじゃないだろうか?
それができない人は切り捨てるということこそが、悲劇を減らしみんなで仲良く幸せに暮らすための方向性だったのかもしれないと思い始めている。
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