最近言葉遣いが汚くなって心が荒みがちな気がするが(笑)、まあクズとバカってのはわかりやすいので便宜上使っているだけのなので。そこらへん情状酌量と翻訳しつつ読んでもらえると助かります。
・しかしなぜクズというものが、あるいはそうした要素がこの世界からなくならないのかというと、それはクズであることやクズである要素というものはこの世に存在するきちんとした理由があるからであると言える。そしてそうした特性が最も求められるのは組織というものの持つ性質でもあるということができるだろう。
さまざまな理由がありデニムたちは虐殺に加担してしまう(してしまった場合)。もちろん追い詰められて、差し迫った理由がある、否応なくせざるを得ない状況に追い込まれるということではあるが、しかしどういう理由があろうと虐殺に加担するといったことはクズ以外の何もののでもないし弁護できる余地はない。元々そういう性質がなければ卑怯・卑劣なことはなかなかできないということでもあるという意味では個人的な性質に理由が行き付くことになるが、しかし組織的にはそういう人間がいなければなかなか話が進まないということもあり、そういうことをやってくれる人材をこそ重宝するという背景は元々あるのだ。ある意味ではそうした行いは犯罪行為だが、でもそういう危ない橋を一緒に渡ってくれた人というのは得難い存在である。そこで「そんな馬鹿なことをやってはいけない!」などと主張する空気の読めないバカとは重大な仕事などできるものではない。
いや何よりも、そこではっきりと組織への忠誠が試される。一緒にこの危ない橋を渡ってくれる共犯者となってくれるかどうかがそこで試される。「同じ釜の飯を食った仲間」ではないが、危ない橋を共に渡った関係であるかどうか、そしてこいつはそういう性質を持つだけの人物かどうか、そして今後も信頼したまま仲間として共に進むことができるかどうか。踏み絵を踏んでもびくともしない人間であるのかどうなのか。そこまでいくと、クズであるということは全幅の信頼の裏返しでもあると言える。そういう意味では、我々の組織論、我々の社会そのもの、他ならぬ我々自身がクズとクズ的性質を求めている側面というのはある。空気を読まずに正論を振りかざすだけのバカよりは、一緒に危ない橋を渡ってくれるクズの方がナンボかいいのである。
趙高はかつて朝廷に鹿を連れてきて、「世にも珍しい馬でございます」とやったことがあるが、そこで正論を言う皇帝側の人間か、それとも自分にへりくだってこれは珍しい馬ですなという人間かを秤にかけたことがあるが、これなどはまさに典型で、空気の読めないバカよりは自分に公然とへりくだってゴマを擦ってくれるクズの方がいいのである。
あるいは経営的に厳しいからと食べ物の洗浄の工程を減らしますと言うとする。毎日やるのを三日に一回にします、一週間に一回にしますとやるとその分の経費は浮く。つまり余計なところに経費を使わない経営的に優れた手腕の持ち主となるが、しかしこれは食中毒で死亡者を出す事態にもなりかねない。この際も話は同様で、正論を振りかざすだけの空気の読めないバカよりは、一緒に危ない橋を渡ってくれるクズの方を重用する理由というのは我々の内にある。
あるいは内部告発してその後に組織に戻ろうとすると裏切者呼ばわりされることが多々話題に上るが、それはそうで、組織の内情を他のところに告発する、恥を晒させるようなマネをしながらしかし組織に戻りたいというのは辻褄が合わない。それは正論かもしれないが組織を裏切っているためであり、つまりクズをやめて空気を読まないバカをやると。それを意志表示しながらも組織にいようとするのは、我々の文化や習慣が恐らくはこれはもう全く相いれないものと判断し、許さないのだろう。組織をやるならクズとなる覚悟は必要となるし、それが全うできないなら離れるしかないのである。
・話が大分逸れた。
ジュヌーンという男は民族浄化政策に関わり村一つを壊滅させた過去を持つ。それが騙されたもので本心ではないにしても、やったその張本人はジュヌーンである。つまり心の内はクズではないにしても、やった行いはクズそのものである。そしてその行いを反省し、これはおかしいと思ったため意見したところが組織から重用されなくなったという過去を持つ。やった行いがクズかつ、終わった後に組織を批判してきたバカでもある。つまり、ここではクズとバカとは決して矛盾するものではない。クズとしての要素はあるのだが、しかし虐殺が終わって組織にたてついたことでバカであることが示された。つまりクズかつバカという現象が起こる。その時何が起こったかと言えば、組織はすべての罪をジュヌーンのせいにしてジュヌーンを切り捨てたのだ。
つまり何かって、ジュヌーンは「N」(ニュートラル)に分類されるのだが、このNの意味するものは何かってクズでもあるがバカでもあるという意味で(あるいは完全なクズではないが、かといってバカになり切れるというわけでもない意味で)ニュートラルだということもできるのではないかということである。
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