賢さと愚かさ6






 前回は諸葛亮について書いたので今回は司馬懿について。
 横山光輝の三国志の影響もあってか、司馬懿は凡庸で大したことのない文官という印象が持たれがちに思うが、実際にはそんなことはない。西は諸葛亮と対峙して苦戦させ続けたし、北は公孫越の討伐成功と将軍として非常に優秀な戦績を残している。しかも魏の内部をスカスカにして司馬一族が乗っ取ることを考えるなんていうのは他に誰もやってないことで、それを成功させて三国統一を成し遂げたのは魏ではなく晋であると。これはもう破格と言っていい結果を残している。これはもう文武両道でどちらにも睨みを効かせることができなくてはなかなかできないことだと言える。


 ・諸葛亮と対峙した司馬懿は、諸葛亮は優秀だと判断したようだが、しかし打って出なければ基本的には負けはない。いくら諸葛亮が優れていようとも出てこない相手に対してはもはやどうしようもない。
 困った諸葛亮は司馬懿に婦人の服を送ると。つまり「お前は女ですか、男なら正々堂々と戦ってみせろ」という挑発なのだが、これで出るような武将ではない。魏と蜀の国力差は圧倒的で、ほっといても蜀は大して伸びないのに対し、魏は国土が広く次々に人材も出てくる。これでは国力差が開く一方である。司馬懿はこの国情を知っていたからこそ戦わずして勝てると判断したわけだし、諸葛亮からしてもそれを知っていたわけで、だから焦っていてなんとしても戦いたかったという事情はある。
 その諸葛亮が国内事情で撤退せねばならなくなった時には、追撃を勧められたがしぶる。そして業を煮やした張郃(ちょうこう)という将軍は自分だけでもと出陣していき、そして諸葛亮に見事に打ち取られる。打ち取った諸葛亮は見事だが、この張郃は袁紹の配下として登場して以来30年は第一線で戦ってきたというまさに魏の名将と呼ぶに相応しい将軍であったことを思えば、 その功績の多い名将がいずれ自分のライバルとして邪魔な存在となる前に消そうと考えたのであれば、その司馬懿の判断能力はバカにならないものがあると言える。


 ・そういうわけで非常に優秀な司馬懿という人物だが、恩あるはずの魏を裏切って晋を建てた(実際に建国したのは司馬懿ではないが、そのために魏の内部をスカスカにした意味での張本人は司馬懿という意味で)ということですこぶる評判が悪い。自分を取り立てた曹操の一族と夏侯一族を皆殺しにしたわけだが、ライバルの諸葛亮が清廉で知られることもあって人気が非常に悪い。
 これが何を意味するかといえば、司馬懿はものすごく賢かったということ。文武両方に優れた人物は他を見渡してもそうなかなかいない。その賢い人間が何をするかって、バカなこととかムダなこと、愚かなことはそうそうしない。魏や曹操に生涯忠誠を誓うなんて馬鹿なことはしないのである。つまり最も効果的で効率のいいことをし続けたという意味ではこの人には全く隙がない。いわば意味のある手を打ち続けたわけだが、そうして意味のあることが連なっていった先で何があるかといえば、中国史上稀にみるほどの悪名高さだった。諸葛亮が、忠義というムダなもの、愚直さによって戦争には負けても総合的には勝つことを考えたと仮定すれば、司馬懿はそういう思考はしていない。総合的だろうとなんだろうと勝ちは勝ちだと考えていた。しかしその意味のあるものの連続と勝ちの連続が歴史的な評価を遠ざける働きをしている。


 つまり賢さというものの連なりというものが、その過程に比べて決してものすごくいい結果を生んでいるわけではないということ。皮肉なことに、賢さの連続がもたらしたものは愚かで見るに堪えないほどの散々な結果であるということ。これはもう諸葛亮ときれいな対比となっていて、諸葛亮は滅亡という結果に向けての愚直な忠義の連続という過程を作っていて、それが中国史上稀に見るほどの忠義とみなされた。そういう過程と結果の一致になったとするならば、司馬懿はそうではない。最も素晴らしい、有効な手を打ち続けた。戦争は勝つし国の内部は自分が抑えた。ライバルは徹底して排除した。優れているがゆえに見えただろうその過程が、しかし結果からみると散々なものだったということを果たして司馬懿はどこまで意識していたのか。
 自分が死んだ後のことなんか知ったこっちゃないという風に見えるのは現代から見た感想であって、当時は死んでも名を遺すといったような価値観が一般に根強くあったことを思うと、恐らく本人にしても全く意識してなかったということはなかっただろう。しかし恐らくは虚名より実物を重視するタイプだったので、美名が残って何になるとでも考えていたのではないだろうか。


 ・名前を残して何になるかということではあるが、諸葛亮の子孫などはその後あの諸葛亮の子孫か!ということでフリーパスで使われたということもあったようである。となると美名は決してムダなものではない、というより1000年後どうみられるか云々を省いても、その美名はそういう意味では直接子孫に恩恵としてかかっていることがわかる。諸葛亮がそれをどこまで意識していたかは疑問ではあるが、確かにそういうことは現にあったのだろう。
 しかしそれを思うと司馬一族のその後はあまりいい話を聞かない。というよりその後の晋は、司馬炎が明主だったはずなのになぜか各地から美女を集めて日夜子作りに励むという下らない王になっていたり、あるいは八王の乱によって司馬一族同士で殺し合いをしていたりとパッとしない話が多い。なぜかは不明ではあるが、「あの司馬懿の子孫だからなあ……」という解釈をここに一応挟むことはできそうである。司馬懿の悪名と悪行がこうした形で子孫に表れるというのは関連性を持って語られそうなことである。まして諸葛亮とその子孫の話があればなおさらである。

 とまあそういう形で愚かさと賢さ、すなわち賢いんだけど忠義という愚かさ、愚かな過程にこだわったがゆえの美名を考えた諸葛亮と、賢さという過程にこだわったがゆえに悪名高いことになり子孫がなんか悲惨なことになっている結果的には愚かな司馬懿という対比は考えられるのではないかということである。




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