人生の90%は小学校段階で決まる論。かなり過激な題だが、これは実際には人によってかなり幅が異なる、とはいえ小学校段階でかなりの方向性が決定づけられるというのはほぼ間違いないのではないかと考えている。
・若い時の苦労は勝手でもしろという言葉がある。恐らくこの言葉の意味する範囲は当然現代とかつてとは異なっており、かつての範囲で考えられるべきだろう。すると人生50年、若い時なんてのはせいぜい20歳まで、そこらへんで苦労しておかないと、後々必要があって苦労しようにも、そもそも苦労ができない。そういう意味での方向性というのはオレがここで言おうとしていることとそこまで矛盾したものではないのではと思っている。
60代でも若手の現代でさあ苦労しようと思えば、あっさり身体を壊しておしまいだろう。無茶ができるのはせいぜい10代20代、30代は人生50年の時代ではもう峠は越したかなと。そのくらいで考えて妥当でいいのでは。
・個人的な経験談で申し訳ないが、昔のオレはものすごく足が遅かった。で、いやでも走らないといけないってのが本当に嫌だった。いやでいやで仕方がなかったが、ある時一念発起していろいろやってたら足が速くなった。その問題は結局努力で克服できるものだったわけだし、いやそれ以上に経験として大きかったのは、いやで苦手な分野でも向き合って克服すると意外と好きになるということ。多分教育のミソみたいなものはここにあって、従来の範囲というものがあるとして、それをいかにして、どのようにして克服するか。向き合っていくか、向き合わずに逃げるか。そういうことによる従来の範囲からの開拓経験というものが人生においてはものすごく重要になっているのではと思うのだ。今の視点からは。
そうして陸上に関わったことというのが、別に今走ってなくてもある種の経験とか知恵とか方向性として身についている。これも捨てがたい。
・例えば数学の才能というものを引き合いに出した時に、前提として考えられるのは算数。九九は嫌いで苦手でできないけど、一次方程式はできますということはこれは辻褄が合わない。掛け算ができないのに、どうして一次方程式ができるのかとなるとこれは矛盾している。ましてや三次関数など不可能だろう。だから前提としての足し算引き算、掛け算割り算ができるというのは必要だといえる。しかし、だとしても小学校段階で躓くことはあり得る。
縦×横×高さと書かなければならない時に、高さ×……としても答えは出るが、小学校段階では×がつく。そうすると30点とかになり、苦手となり嫌いとなることもあるだろう。その方向性の先で、天才的数学者としての才能がどこまで開花するかというのは極めて怪しい。
・しかし議論としては数学の才能はあると一応いえるということはこの場合は起こり得る。算数が嫌いで躓いているからたまたま開花しないだけで、やっていくうち付き合って向き合っているうちに開花するということは起こる可能性がある、とはこの場合は言い得る。しかしそれが実際に開花するかしないかは本人次第、算数というものに向きあうことができるか、算数を一度味わってマズイと感じた、そういう一時的な食わず嫌い的境地から、実はものすごく美味しい楽しいと感じることができるか。まあここでの結論でもあるのだが、これというのはとんでもなく難しいということ。
才能がいくらあろうが可能性がいくらあろうが、一度嫌いになったものにもう一度向き合うということ、その分野に取り掛かり開拓すること、これはもう段違いに難易度が高い。つまり可能性はある、才能はある、それでも開花できない才能はこの場合当然にある。これは一種のドングリみたいなものに近いかもしれない。大きな木になる可能性はすべてのドングリにある、才能はある、しかし硬い殻を打ち破る力を常に持ててモチベーションを失わないで維持できるドングリはほとんどない。
これはドングリだけの問題ではない。そのドングリに向き合っている人間も同様で、その目の前にあるドングリに対してじゃあ土をかけてやれるか、水を毎日かけてやれるかといえば結構難しかったりする。で、人にしろドングリにしろそういう固い殻にわざわざ向き合ってエネルギーを費やして、打ち破ろうという長い忍苦と苦痛に最後まで耐えられるものなんてのはほぼないに等しいと言える。この場合才能はある、ただ開拓する力がないだけだと言える。こうして芽をとうとう最後まで出すことがなかった才能なんてのはしたがってごまんとあると言える。算数克服という前提を外して一流の数学者はあり得ない。
多数いるオリンピック選手も、最初はその分野が嫌いだったとかいう経験談は多数ある。意外なことだけど、最初から才能が炸裂して今というケースの方が珍しい。むしろ前提として彼らに才能があったからやったというわけではないし、いやだった、逃げ出したかったと。それでもたまたま嫌いなそれというものすごく固い殻に向き合い続けたことがある、その事態がたまたま彼らの持てる才能と結びついて才能は開花したのだということはできるだろう。
ここにあるのは殻を割る才能でもなければ、殻を割るほどの才能の発露でもない。いやでも向き合い続けたこと、強引にコクピットに乗せられ続けたことによって次第次第に殻が割れた、それによって才能が開花していったということである。
・じゃあ大人になっていろいろ考えてみて、最も使えるものというのは何かと思った時に、重要なのは数学でも陸上でもなくて、この開拓力であり、未知の分野を臆することなくガンガン開拓していける能力、というより気質というものはとんでもなく強いものだと思うのだ。全然ダメでもへこたれない。食らいついて未知の分野に取っ組み合って付き合っていける能力。まあとはいえ、これが直接才能を開くというわけではない。あくまでそうした中で、ごくごくたまに開かれる才能も中にはあるというだけのことだ。
1000個のドングリすべてを世話しても出てくるのはわずか。それでも出てくるものを信じて世話をできるかどうか。才能さえあればすべての逆境を乗り越えて芽を出す論もあるが、土も水もなしでは芽吹くどころかすべてが死に絶える。
算数で躓いた人間に数学の才能は開花できない。
そこで土も水もやらないのは才能の開花を信じることではなく話の次元は単なる怠惰であり、ネグレクトでしかない。全てが死に絶えるのをもって「才能のあるやつはいなかった」というだけのことだ。これを延長させて言えばアウシュビッツの収容所でガス室に入れられても「本当に才能のあるやつはガス耐性を身に付けて生き延びる」論も成り立つだろう。これだとドングリと同じですべてが死滅するだけのことである。
・冒頭の話に戻るが、小学校段階で90%は自分で言っときながらさすがに言いすぎだと思うが、ただこの開拓力が身についているかいなかで大きく話が分かれてくると思うのだ。開拓力が身についていればこのパーセンテージを30%程度にまで下げることは十分可能だろうし、なんなら5%とかも普通にあり得ると思っている。
しかしその一方で、90%、95%ということも普通にあり得るということはここで指摘しておきたい。
そういうわけで、今思えば小学校段階で毎年めちゃめちゃ苦労していたことは今となっては貴重だったよなあと振り返って思っているところ。あまり得意なものがない人間だったので本当にいろいろ苦労していた気がする。
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