仮病について






 ふとなんか昔のことを思い出す。


 ・右肩が調子がイマイチなのだが、これが本調子に悪かった時のことを思い出す。体温が34度台(というか34度3分とか誰か疑えよという話ではあるが)、身体が思ったように動かず、右手の握力5キロ、病院にかかっても原因不明。あの日々がなければ病院嫌いにはならなかったのではと思うのだが。


 ・病院としては一生懸命やってるという名の毎回保留と様子見だったのだが、ある時職場で告げられたのは「あんた仮病らしいな」と。本当は働けるのに仮病を使ってるという話で、はあ?という話だった。
 だれがそんなウソをと聞くと病院が言ってるんだよと。
 考えてみれば「原因不明」というのは非常に都合が悪い。病院としてはメンツに関わるし、なんでもかんでも原因不明ではあの医者どうなの?という醜聞に繋がりかねない。そうなるとここは誰かが死ななければならないけど、病院は死にたくないし医者も面倒に関わりたくない。そういう時に便利でどうしても誰かに死んでもらわなければならない時に、患者を殺すと。
 あいつがウソをついているのだ、本当は元気だ、病気やケガがあれば何かしらレントゲンや何かで出るはずだとこうなる。
 となるとつまり考えられる原因は一つ、あいつが悪いとなる。


 さすがにそれを聞いて激怒したし、自らの無力を棚に上げて仮病とは何事だと怒髪冠を衝く勢いで思ったものだったが、さらにその背景を考えても上記のように誰かが死ななければならないのだと、じゃあこいつに死んでもらおうかという判断が働いたのだろうと思ったものだったが。


 そういう心底やりきれない時に大阪の病院放火事件が起きた。いい医師だったと評判で、なんでこんなことになったかと言われており、そして無敵の人が問題になっていた。焼けたビルを見ているうちに、話を聞いていくうちに、妙に冷めるものを感じていた。とぐろを巻いていた感情がほぐれていくような。それでいてどこか寒々しい気持ちになるような。
 別にそれをやろうとかいうほど馬鹿じゃないが、あれだけのバカさ加減を見ていると怒りのエネルギーの虚しさと不毛さ加減を思う。何かしらの原因やねじれ、誤解はあるのだろうし、まして余裕のない世相でもある。ただ、誰が悪い、あいつが悪い、お前が悪いと責任を擦り付け合っていった先で、誰かが一人死ななければならない場合がある。そして誰かがおとなしく死ねば、死人に口なしで事態は丸く収まる。いや事態を丸く収めるためには誰かが一人どうしても死ななければならないこともあるのだ。そういう形で生まれた「死ね」で誰かが死ぬんだけど、ふざけんなとなれば殺し合いになる。悲しいんだけどこの世界はそういう形の「死ね」に満ち満ちている。


 別にだからと言って正そうとも思わないし、それをするだけの義理もお人よしさ加減も今では別に持っちゃいない。死ねが死ねに繋がり殺しあっていようと、それに巻き込まれないように生きるだけの話。誰かが死ななければならないのであればおとなしくオレみたいに死んでいましょうよと思うし、それが我慢できないのであれば事件になるだけのこと。誰かが死ななけりゃならない事態が別に変わるわけではない。病院の笑顔の裏にある死ねで患者が死ななければ医者が死ぬのだろうし、医者はそういう火種をまいてても知ったこっちゃない。死んだやつなんか腐るほどいるし、そんな死んだやつのことなんていちいち覚えてられない。そういう生贄を時代が求めるのであれば、生贄が必要なんだろうと思ってスルーするに越したことはない。死なないし殺さない。ただ誰もがやるように見捨てる、おとなしく見殺しにする、あーまた一人死ぬかと思うだけにとどめるというのは、それはそれで処世術の一つなんだろう。そうとでも思ってないとこの時代はまともに生きていくことも難しい。


 そんなことをふと思った。



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