ドラクエ3で人生攻略(要領)






 厳密にいえば今回はドラクエの話ではない。
 というか先日のはぐれメタルを100匹倒した話の続編だと言える。


 ・究極的に突き詰めれば、我々がこの世界で何を求められているかって要領の良さ以外の何物でもないと思う。頭が良かろうと悪かろうとそんなことは実は全然求められていなくて、ただ頭がいいと当然要領もいいものだろうと思われるのだが、実際は全然そんなことはない。2つは似て非なるものであるといえる。勉強ができれば頭がいいと言われるのだが、実際に求められているのは目の前の課題をいかにこなして高得点を稼ぐかというその能力であり、その意味ではスポーツも勉強も求めるところはそこまで大きく変わらない。逆に頭が良くても全然成果を出せないのであれば我々は全然評価しないし、スポーツだっていうことは立派でも成果を残せなければ我々は評価しない。結局は出された課題に対してどれだけの成果を叩き出せるのかということに尽きる。


 ・先日の話でいくと「はぐれメタルを100匹倒しなさい」と学校で課題が出されたとする。出ないけど。要領の悪いやつはこんぼうでもどうのつるぎでもとにかく倒そうとするだろう。あるいはブーメランみたいな(ドラクエ3にブーメランはまあないのだが)絶対に会心の一撃が出ないようなものを使って倒そうとするような最低最悪に要領の悪いやつも出てくるだろうが、中には運よくどくばりを使って一撃で仕留めることのできるようなやつも出てくるだろう。
 そしてその中から「あれ、これってもしかして全員にどくばりをもたせたら早いんじゃね?」と思いつくやつが出てくる。するとものすごく速度は上がる。3倍以上に跳ね上がり、ラクラク課題をこなしてしまうだろう。


 ・我々の能力を決定づけているところのものは恐らくここらへんであって、
 ①どうのつるぎで挑む=1倍速△
 ②ブーメランで挑む(ドラクエ3にブーメランはないのだが)=1倍速以下×
 ③どくばりで挑む=3倍速以上〇
 ④全員分どくばりを用意する◎
 こういった感じで我々のやり方というのは変化する可能性があるとはいえる。しかし中には①、あるいは②のやり方に固執して絶対に変えないままにクリアする人も出てくるだろう。④が1日がかりでクリアするとすれば、①は12日かかる計算になる。こういったことの末に起こる現象が、どちらも100匹倒して100点なんだけど、しかし中身は全くの別物という現象の中身なのではないかと思われるのだ。④は①とは全然違うやり方なのだが、①は①のまま一向にやり方が変わらない。試行錯誤もしていなければ、③のどくばり発見ということも見つけられていないのだ。


 ・じゃあ③とか④を経た人が①の人に教えてあげるとすればどうだろうか。
 「どくばり使ったらいいよ」
 「なんならスーに行けば全員分手に入れられるからそれからやったら?」
 これによって①は恐らく変わる。
 しかしこれは課題をクリアする意味では変わるのだが、別に①はこれによって試行錯誤するわけでもなければ新しい気付きや発見を自力で獲得したわけでもない。
 しかし課題事態に関してはクリアしているのだ。これが何を意味するかというと、結果良ければすべてよしという意見もあるだろうが、④は自力で気づいたり試行錯誤したりしてクリアしているのに、①はそれを教えてもらうことによってクリアしている。自力ではなく他力によってクリアする。これによって確かに課題はクリアできる、しかし自分の実力をせっかく伸ばす機会であったのに、その機会をむざむざ潰すに等しい。
 傍から見ていると確かに両者は階段を一段上がったように見える、しかしその内実は全く違っていて、①はせっかくの機会をひとつムダにしたに等しいと言える。要領の良さというのはこういう自力であり地力であるところのものとどうも密接にかかわっているものらしい。


 ・教育というものが要領と対立する要素となっているのはおそらくここらへんにある。詰め込みか、それともゆとりかということはいまだに議論されているが、それによって自力を伸ばすという方向性とじゃあ具体的にどのようにもっていくのかということ、そういうことを抜いて成長は語れない。その意味ではどちらを選んでも教育としては失敗であり、本質を欠いていると言える。もっといえば、それが教育である以上根本的に人が自分で成長する芽を摘み取ること、具体的には人が成長しようと階段を上ろうとしている時にその努力を摘み取る方向性をもつこと、上記の例でいえば「どうのつるぎよりもどくばりがいいよ」と教えることは親切であり教育であるといえるかもしれないが、しかしそれは成長を意味するものではない。その人が自力で階段を一段あがったのだと実感することが重要ではないかと思うのだ。


 ・ダメな親からしっかりした子が生まれると言われるが、親がダメで本来やるべきことを子どもがため息つきながらやるということはこれはこれでかなり合理的であるとはいえる。しっかりした親はしっかりしているがために子の成長を摘み取ってしまう。それは親切で優しいからだが、何不自由なく過ごすことが成長にとっていいかというとそうだとは限らない。教育的であることが十分に成長的であるとは限らない。むしろ教育は成長を意外と阻害する。もちろん100%そうだとは言いきれないが、放任とか冒険、それによって痛い目に遭わせるということが人を成長させる。何不自由なく過ごすということはいかにも必要なことだけやって要領よさげに見えるが、実際には周囲に体験する機会を奪われているともいえる。そこで体験して苦悩して悩みつつも、これだ!とやって低得点をたたき出す機会は失われてしまうのだ。


 そういうわけで、人が頭が良くなるとかどうかは今一つよくわからないが要領ということに関してはいろいろ思うところがある。というわけで、しばらく要領に関していろいろ思うところを書いていこうと思っているところ。






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