滅ぶという思想






 ツイッター上で集団自決がトレンド入りするような世相ではあるのだが。
 その流れを受けて「ああ、日本経済が行き詰っているのは高齢者のせいか、オレの人生うまくいかないのもそのせいか、じゃあオレが高齢者を殺すテロを起こせば日本経済はよくなる」とか考えてテロを起こすようなことにならないかと心配な昨今ではある。いつぞやの福祉施設襲撃や安倍首相殺害も意外と支持を集めており、日本を変えるにはそういう過激な手段も必要だと誰が考えてもおかしくない。それが実際には困窮している高齢者も少なくないという事情を踏まえても、社会保障費や年金制度、人口比率なんかを踏まえると意外と妥当な結果に思えてくるというのが日本の悲しい事情ではある。
 とはいえ、滅ぶべき人間に滅べと向けた刃がいつかは自分に返ってくることは覚悟しなくてはならないだろう。他者を蹴落として恩恵を受けている以上は自分もいつかは蹴落とされて恩恵を受けるやつらがいるという状況になることは覚悟しなくてはならない。


 ・そもそも人の死亡率は100%であるという事実はある、だとしても今死んでも後々死んでも変わらないだろというのはかなりの暴論だと言える。それこそ自殺でも考えないとそういう境地にはなかなか到達できるものではない。そういう自分でもなかなか取り入れにくい思想を他者には強いる、あるいは強いていいというのはかなりムリがある。


 ・滅ぶということと真逆にあるのが繁栄という概念だとして、若者にとっての反映が何かと言えば高齢者がいなくなればその分負担が減ってすなわち富むことができるという方向性はわかりやすい。これはもう単純な椅子取りゲーム的な価値観であって、あいつらがいなくなればオレがその位置にとって代われるという単純なものだといえる。しかしそうして得た繁栄であっても、自分がそうして奪ったようにいつかは誰かに奪われかねないという不安というのは常につきまとうことになる。これは恐らく高齢者にとっても同じことで、あるいはそれ以上に深刻で、誰かが奪うことはないかもしれないが、それでも寿命を迎えた時に必然的にその位置はなくなることになる。そういう意味での繁栄と転落という価値観はセットになっているといってもいい。まあそれよりもっと先に死にたくないがくるのだろうけど。


 ・そうなると「繁栄」という価値観そのものがなんだか貧相なものに思えてこないだろうか。これはもうまさに椅子取りゲーム的なものそのもので奪ったらラッキーだけど奪われたら残念という程度のものでしかない。しかし人間というものがそういう価値観だけを頼りにして生きてきたのがこの人類の歴史かといえば、個人的にはどうもそう思えない。
 死というものは必ずある、滅亡はあるし衰退はある、だとしてもそういう紆余曲折を考慮しても一人の人生は豊かだったと。そういう価値観の前では、単純な滅びでしかない死というものでさえも生というものを盛り上げるものと化す。どういう死を迎えたか、死とはその人の人生でいったいどういう意味合いを持つものであったのか。いや、個人としての生の意味合いはそうであったとしても、子々孫々、家単位での意味
合いはどうであったのか、いやそれすらも小さなことで、地域や社会の単位はどうであったのか、そういう物差しはあってもいいと思われるし、大局的に素晴らしいものであれば個人としての生の意味など大したことはないのだというような見方はあってもいいのではないかと思うし、実際そういう死生観というものを古代の人は持っていたのではないか。だとすれば、億を数えるような巨万の富を一代で築いたとなると素晴らしいとなりがちなのが昨今の風潮ではあるが、そういう見方は便利ではあるが人としての見方を相当貧相なものにしているのではないかと思えるのだ。わかりやすいがために、かえって人の生の勝ちを貧相にしてしまっていると。
 まとめると、個人としては貧相であっても、それでも否定されない豊かで素晴らしい生はあると思うし、そういう概念そのものが失われていることが我々の生を貧相にすることにより一層拍車をかけているのではと思える。


 ・いやこういうことを考えるのは、先日とあるアンケートで戦争になったら行きますか逃げますかというので行く方に入れたのだが、それが9%で、91%は行かないという方だったと。あれ、ほとんど逃げるんだなと。じゃあオレも行かないで逃げるというのが賢いんじゃないのか。そう、確かに死んだら元も子もない、生きていてこそ咲かせる花もあろうというものだと一時思いはしたが、なんかその選択に違和感があった。確かにそれは正しいし、それを否定したり非難したりすることはできない。
 ただ、個人的に思うことは栄えるということは滅ぶということと対になっているんじゃないかということ。この世界には滅ぶべき人もいる、滅ぶ人もいる、しかし栄える人もいるし、宝くじ一等取るような栄え方をする人もいる。逆にどんなに努力しても泥船って人もいるし、あるいはどんなに生きたくても死ぬ人もいる。
 だとすれば、滅ぶ人間がきっちりとした覚悟をもってきっちり滅び切ってこそ栄える世界というのはあるんじゃないかと思ったし、そういう意味での新陳代謝が日本で悪くなっているのも確か。そして滅ぶことによって確かに世界が良くなるのであれば、先陣を切って滅ぶという価値観はあると思うし、何よりも今の「生」に偏重した価値観に対して新しい道を示すことに繋がるのではないか。
 いや、それよりも何よりも、高齢者が滅ぶことによって日本が良くなる、じゃあ滅べよという見方があるのは確かだが、その見方は自らの滅びを視野に入れていない。しかしそういう意見を持つ以上は、自ら率先して滅ぶ道へと突っ込むことによって世界に対して範を示すことが可能になるのではないか?他者に滅びを期待するならば、まずは己が滅ぶことによってその道を示すべきだし、その道を切り開くべきではないかと。そしてそうなる覚悟がない以上は、そういうことを言うのは慎むべきだし、そもそも誰だって率先して死にたくはないはずだと、それを言うということはやはり異常なことなんだろうなあと思うわけだ。だからこそ率先して滅ぶこと、滅ぶことによって意外と滅ぶことは悪くないということ、そして滅ぶということでさえも豊かな生というものを構築する一要素でしかないという世界観を獲得すること、何よりも個人の生という小さなものに拘泥することをやめた先にある大きな視点の獲得、こういうことに向き合うことが必要なことではないのかと思うのだ。きっちりと滅び切ることへのこだわりとそれにまつわる美の観念の獲得。そういう意味で、死ということにまつわる概念そのものが現代は貧相なんだろうなあと思う。そういうわけでオレという人間が古いタイプのものの考え方をしているし、まあ古代ものとか結構好きだったりするのだが、そういう古さがあるがゆえの滅びというものにかなり親和性は近い気がする。そもそもヘビの毒とか自分に打ちながら、死とか滅ぶということにあるその先の概念とは何かとか普段から考えてたりするもんなあ。新しい人間はその先の生について考えればいいと思うし死とか滅ぶことについて考える必要もないと思うが、その反面古い人間はそれなりに滅ぶことは必要だし何よりそれなりにそれは有意義なことなんじゃないかなと。



 ・そういうわけで、戦争になったら真っ先に敵陣に突っ込むのもいいと思っているものの、こういうことを言う輩に限って戦争になったら我先にと行方をくらましたりして(笑)
 まあそれはそれでおもしろいからいいか(笑)





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