味覚






 味覚がなくなった時からなんとなく味覚について考えることが増えた。



 ・「なによ!私なんて美しかったことなんて一度もないわ!」
 と言ってソフィーは泣いた。
 人生生きていると絶望したり苦しんだり、僻んだり嫉妬したりとそういう感情が増えていく。それは若いころにはそこまでなかったものだと思う。となるとつまり、「感性」というものは年を取っていてもなお健在であるとはいえる、ただそれを美しいものに対して使おうとか、楽しいことを楽しいと感じたりとか、おもしろいものを追求したりとかそういう方面に我々がただ使わなくなっただけのことではないのかとふと思った。感性はある、健在である、ただそれをプラスに生かすためには、我々があまりにも怠惰になってしまっただけのことであって、プラスなものには触れたいし楽しいことを求めつつも新鮮さを求めたときに思うことは「でももう大体分かってるんだよなあ」と自らをセーブして結局やらないししない。そして使われない感性はマイナスな方面にばかり生かされることになる。そのおおもとを突き詰めるならば、例えばソフィーにあったのは臆病や不安であるというよりは怠惰に基づくところが大きいのではないか。


 ・つまり、感性は生きているということ。我々が小さい時には苦いピーマンを嫌っていたが大きくなると苦味もわかるようになるように、小さい時には楽しいことやおもしろいことを追い求めていた、その感性を苦味に対して使うようにばかりなっているということ。そしてそれが概ね怠惰に基づくということ。
 そうであるならば、人の幸福とは何かといえば、味の濃いものや甘いもの、おいしいものばかりを追い求めている時にしか味わえないものだろうか。いや、我々はピーマンのおいしさをわかるようになっていくようになる。たくさんの美味しいものを、そのおいしさを見出せるようになっていく、それがいわゆる「成長」と呼ばれるようなものであるかどうかはわからない、しかしそうした充実はあるということ。ならばそお方向性を一般的には悪いと言われる感情に対しても持てるようになっていく、それは人生の貧相化を意味するものではない、むしろ人生を充実させるためには必要不可欠なものだと捉えなおすことは可能なんじゃないだろうか。
 これは昔良かったものを良かったものとして感じ続ける懐古主義的なものに対立させるために敢えて作っているところはある。昔良かった、今は、そして未来はそういうものを見出せない。ならば人生は衰退していく一方だという概念に対してなんらかのものを見出そうとするならば、こういう味覚的なスタンスから人生と人生観を捉えなおすという方向性はかなりありなんじゃないかと。


 ・だとすれば、絶望をオレは肯定したい。僻んでいくこと、嫉妬する醜い感情、人生がまるで先細りしかしないように感じられていくような感情、そういうものはむしろ人生を豊かにしていくためには必要なことではないのかと。我々はそうしてかつてわからなかったものをわかるようになっていく、だとすれば本当に忌むべきは怠惰であり、そういうマイナスにばかり振れていく感情をプラスなものはないかなあと追い求める心が大切であり、そういう経験を経ることが大切なのでは。
 昔良かったものを追い求めること、それは経験を先細りさせる、その他の方向性を何ら生み出すものではない、そういうことを通したよかったものだけを積みかさねていくことを我々は幸福と呼ぶ、しかしそれを幸福とは言わない、それは舐めあいであり、実質的な窮乏化であり、先細りの真の原因だと呼べるものだと。
 つまりは何か、絶望の先にさえ我々は豊かさを見出すことはできる、真の幸福の道を追求することはできる、ただそれがあまりにも苦いために我々が忌避することが多い、そもそも我々はそれを幸福とカウントしない。そういう認識こそが我々を豊かさから離す元凶なのではないかということであり、それはおそらく味覚的な切り口から考えるといろいろとヒントとなることも多いのではということ。










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