弁当と迷惑






 なんとなくぽけーっとしていたら昔読んだ国語のエッセイかなんかを思い出してきた。日本人は弁当文化でインドは混ぜ飯文化なんだと。インドは一品でも多くのものを混ぜたら豪華でごちそうとなり、それはよいこととされる。迷惑をかけるということはインドでは当然人間なんだからかけて当然のものだし許容しなさいとなる、しかし日本では絶対悪としての迷惑がある。なぜかといえば人は幕の内弁当みたいなものであり、ご飯はご飯、漬物は漬物で配置が決まっているし枠組みがある。その枠組みからの逸脱というものは許されないことであり、要するに迷惑に繋がると。なんかそんな話だった。
 これは古代韓でも似たような話があって、王が寝てたら冠係が布団をかけたと。王は起きて布団がかかっているのを見て喜んで、だれがかけたのかと聞けば冠係がかけたのだと。それを聞いた王は布団をかける係の者と冠係を罰した。布団を掛ける者は布団をかけるという職務怠慢で罰されたのであり、冠係はその他人の仕事を奪ったがゆえに処罰されたとかそういう話だった。そういうことを漢文の授業で習っていても意味がよくわからなかったものだが、今思えばそういうことを言っている、その原型というのは現代でも密接に関係しているもので、現代の我々の社会生活を脈々と流れる源流となっているものなんだろうなと思えた。
 「出る杭は打たれる」というのも結局突き詰めると幕の内弁当のその枠組みからはみ出ることに関連したものはある。漬物が漬物コーナーから逸脱することは許されないし、まして漬物がデザートコーナーに侵食していたら最悪である。ケーキの上に当然載っているべきいちごがない、それどころか代わりに乗っかっているのが漬物だとすればこれは最悪である。こういう時に我々が感じる不快感というのは限りなく迷惑に近い何かなんだろうな、などと。
 なるほど、要するにあの漢文が言いたかったことはこれか、と(笑)


 ・その枠組みというのは何かといえば社会的な役割分担によるところはある、それとは別に個人にかかっている役割もあるしその中間のものもある。そして本来我々は出る杭を打つ文化を持っているし、我々はその出た杭を打つ権利を有している生き物だと言っても過言ではないとは思うものの、結局圧倒的な少子高齢化だ人手不足だを経験しているうちに誰かがやってくれないともはや回らない状態になりつつある。出る杭は打たれる文化から誰か出る杭になってくれないと困るという中途半端な立ち位置が求められるようになっていて、それはだれかがやってくれないと困るものではあるんだけど、でも出る杭である以上処刑権を他人が常に握っているという奇妙な立ち位置でもあって、救世主でありながら罪人として処刑されなければ落ち着かないという不気味さを有しているし、その処刑を我々が許容しているというのはあるんだろうなと。
 そういうわけで我々の文化は困窮すればするほど追い込まれていくし追い込まれたものをさらに追い込むことには長けているんだけど、しかしこうやって一人一人潰していった先で何があるかってまあ全滅と滅亡だよねという。それをいやだと思うのであれば、率先して自ら出る杭になるという新しい文化を会得する、というよりそういう風に変えていかないともはや生きていけないんだろうなあということをふと思ったという話。


 ・どうでもいい話だがみかんは薬の錠剤をかみつぶすような味がしておえーとなったし、かずのこは不思議と味覚がなくなる前の元通りの味がして非常においしい。卵ご飯もそうだったけど、なぜか卵系は元と変わらない味がするというのが不思議。





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