カルネアデスの板






 カルネアデスの板

 先日ちょっと話をすることがあった。
 カルネアデスの板で二人になったとして、最終的な結果はいくつか考えられる。
 ①二人ともに助かる
 ②一人は生きて一人は死ぬ
 ③全滅
 こうしたパターンがある時に、では最も最良なパターンはどれかといえば①であり、最悪なパターンは③だと言える。
 じゃあ②とは?と考えたときに、これはいろいろ複雑な要素を持っており、一考の余地があると思ったので考えてみることにする。


 ・一人は死に、一人は生きるわけだけど、死ぬ方もいろいろな要素によって死ぬことになる。例えば争った結果負けるとか、相手に譲って死ぬなんていうこともあるだろう。あるいは先日も書いたが北海道の熊害の際に妻を踏み台にして屋根裏に隠れた男がいたという話を書いたが、厳密にいえばそれは完全な①であるとは言えず、むしろかなり②のパターンに近いものだと言っていい。妻が死んででもオレは生きるというその行動は雄弁にその意思を物語っており、その結果当然その後の夫婦生活に大きな影を落とすことになったのだろうから。正確に言おうとすれば①なんだが②によって大きく影響を受けている①といったところだろうか。
 こんなところに踏み台があるラッキーと妻を踏み台にした、その時はベストでラッキーだったかもしれないが、その貸しは大きくその後一生ついて回る性質のものである、そういう性質があると。


 ・あくまでオレの分析だが、その人の苦しみはかなりこの踏み台にされた側の苦しみに近いものだということは薄々思っていた。
 なぜ私が踏み台にならなければならなかったのか。
 そして自分を踏み台にして生きることを選んだ人は幸せになっている、じゃあ私の人生は一体何だったのか、そしてそうなった私の今後の人生にいったいどれほどの意味があるのか?そして何よりも自分を踏み台にして生きることを選んだ人が幸福になっていくのは自分の分を吸い取って生きているようで辛い。それを選んだときは優しさから選んだにしても、その後の人生を生きることは筆舌に尽くしがたい苦しみがある。1年、5年、10年……時間がたてばたつほど苦しみは増していき、時間は決して解決してくれない、いやそれどころか苦しみは雪だるま式に膨れていく。呪わしい気持ち、恨みつらみ、先の見えない絶望、どうしようもない苛立ち、徐々にそうしたものに侵されていき、その結果その人が選び取ったのは自らも他人を踏み台にするという生き方だった。それは恐らくその人にとっての救いの道に見えたに違いない。
 でもそれは決してその人を救うような性質のものではなかったのだと思う。


 ・オレが示したのはこういうことだった。
 確かにそれは苦しみだったに違いない。
 しかし、クマに襲われた。そして最悪なのはどういう道かと言えば③の全滅という道だったんじゃないだろうか。全滅となればもうその後は何も残らない。希望もクソもない。
 しかし②によって一人が生きたということは、それは今は踏み台になっている今はとてつもない苦しみに見えるかもしれない、よくもオレを踏み台にしやがってと恨みに思うこともあるかもしれない、でもそれはいつかきっと最悪ではなかったのだということに気付く日もくるんじゃないだろうかということ。一人生きているということはそれは希望が完全に失われたわけではない、そしていつか、ああこれはこれでよかったんだと思う日が来る可能性がある道であるということ。希望は残されているということ。


 ③を選ぶとする、それは苦しい道で、じゃあそこにもしかしたら真実の愛があったかもしれない、相手を守ろうと思って踏み台にするどころかクマの前に率先して出て行っていき、結果的に犠牲を増やしたかもしれない、それは真実の愛が証明された瞬間かもしれないけど、それで全滅したらもう何も残らない。だとすれば真実の愛という形が最も望ましい結果に繋がっていないのであれば、それはそもそも「真実の愛」というこの頭でっかちな、そしてものすごく何かを言っているようでありながら何一つとして言っていないこの概念そのものは疑われた方がいいのではないかということ。
 ①というベストな形が分かっていながらも、でもそれを選び取ることができなかったときに、じゃあ②か③か、一人だけ生きる道を選ぶかそれとも全滅を選ぶかとなって、そして全滅に至っていないのであれば、一人生き残って未来への希望が失われていないのであれば、それは決して悪くはない結果だったのではないかということ。


 ・そしてクマを踏み台にした夫がその後ずっと「あの男は自分を踏み台にした」と妻に言われ続けたということだが、一度そういう形になった以上は……つまり外からも言われ、自分の内心もそのことを責め続けること、このことから逃れるのは極めて難しいということ。何よりもそれをした自分自身がそのことを意識し続けるだろうし、そういう状態に陥ることというのはじゃあ命は助かったから儲けもんだったと簡単に割り切って考えるのはかなり困難なのではないかと思うのだ。むしろ人が生きていてずっと苦しみ続けるのは、そういうふとした一瞬に自分自身の「真実」を目の当たりにしてしまって、自分自身の本性が自分自身に対しても隠しようもないほど暴かれてしまうこと、そういうことから陥る可能性が高い。そうなると、生きてはいるがずっとそのことを悩み苦しみ続けることになる、となればそれは決して楽な道ではない。他人を犠牲にして生きてしまった、という自責の念が生きている間中自分をさいなみ続ける道を選ぶことというのは、それは生きてはいる、しかし実質的に半分死んだに等しいものだと思う。


 そういう話。
 他人に踏み台にされる人生はものすごく過酷で苦しいかもしれない。でも他人を踏み台にして生きてきてしまった人生も決して華やかで素晴らしいものだとは限らない、むしろ外見は華やかであっても内面はボロボロで生きているのも苦しい、早く解放されたい、なぜこんな道を選んでしまったのかと悔いていることもあるのではということ。




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