タクティクスオウガ㉛僕が死ねばすべてがうまくいくのか…?

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 ふと昔のことを思い出した。
 タクティクスオウガを考える際には基本分析したことばかりを考えるようにしてきたけれど、もうネタが切れてけっこう経つし(笑)、新しい切り口になる可能性があるのであればこういうおもいっきり主観側に振れた思考も大切なのかもなあと考えて書いてみることにする。


 ・昔のことだけど、その当時属していた組織におもいっきり迷惑をかけたことがあって、しかもそれが最悪側に振れてしまったという不幸中の不幸があったことがあった。結果から言えば最悪は免れたわけだけど、その意識不明の重体で相手が集中治療室に入っている時はまるで針の筵(むしろ)に座っているかのような気持ちになっていた。
 経験ということで考えると、どうしてもその時の成り行きは納得がいかない。しかし納得がいこうがいくまいが、その結果は変わらない。もうそれは運命だったと考えることでしか解決ができないものだったし、なぜこんなことが、まるで夢でも見ているようだ、悪夢のようだといくら思ってもそれは現実だった。
 そういう日々が一週間から二週間続いたときに、精神的にも肉体的にも限界を迎えていたのだろうが疲れ果てていき、それと共に思考が傾いていったのを覚えている。
 もしもこれが最悪の事態を迎えるとすれば、すなわち死ということになるのであれば、オレも責任を取ろうと決めていた。今その時のことを思い返してみると、この時のデニムの心境にものすごく近いのではないかというように思われたのだ。


 ・組織に対する「迷惑」という事態が発生した時に、じゃあどのように落とし前をつけるのかということになるわけだが、この落とし前というものは実質的に存在しない。最悪に振れれば責任を取って死ぬしかないし、最悪に振れなかった場合はじゃあどうなるかといえば、その責任から免れるということはなく、常に責任というものはついて回る。じゃあその責任というものはどのように解消されるのかということだが、これは言ってみれば底なし沼の借金みたいなものであり、実質的に「∞(無限)」であり、金で表せば億とか、数十億ということになるだろうか。毎月返済をしても所詮雀の涙、十万二十万では到底解消しきれるものではない。
 そういう境地に陥った際に「自死」ということはとてつもない効力を持っているといえる。それというのはつまり責任の全うを意味し、それ一撃ですべての負債を帳消しにすることができると考えられるからだ(まあ実際に借金を背負っている場合はまた違うだろうが、責任の重さというものを金で例えている)。つまり、それによってすべての責任を免れることができ、責任を全うすることができ、「あいつは責任を全うした」という名誉の回復(?)もできる、そういう意味でこれというのはすべてを丸く収めることができる文字通り必殺の手段であるといえる。


 そしてそれが何を意味するかと言えば、この日本にはいまだにそうして表される死と責任の形を「至誠」としてとらえる文化が寝強くあるということでもある。おしんかなんかでも、おしんのだんなが責任を取ってこっそり自殺をするシーンがあったが、その時おしんはそのことにとてつもないショックを受けているんだけど、その時脇役が言っていたのは
 「あんたのだんなさんは立派だ。責任あっても逃げ回る連中が多いのに、あんたの旦那さんはきっちり責任を取ったんだから」
ということを言っていたんだけど、あれは本当に的を得た言い方だと思うのだ。いや、正確にはそういう理解のされ方が我々の文化には根強くあるし、そういう肯定のされ方がある、それが我々の文化の根底には脈々と流れているということでもある。つまりは切腹文化であり、拙者は決して腹黒くはありませぬということを切腹して誰の目にも明らかなように衆目の内にさらけ出す。それによって、ああきゃつはこうも至誠の男であったかというような理解がなされる。まあ現代人は三島由紀夫じゃないんだから割腹自殺とかはしないとは思うが、しかしそれをしないにしても、我々の文化はいまだにそういう理解の仕方をしようとする節があるのだ。まるでハンバーガーのセットのように、ポテトとジュースとハンバーガーでセットとするように、死と責任とがセットとなると途端にそういう色合いを帯び始めるのだ。


 ・「僕が死ねばすべてがうまくいくのか…?」
 とデニムは言う。
 これを私が主観的に解説するならば、
 「死んですべてが丸く収まるなんて、なんて安いんだ!」
 ということをここで言おうとしていると思うのだ。安いとはお買い得という意味である。迷惑と、それに対する責任を言い始めると、上記の通りとてつもない重さがあり、それは個人の力では決して解消され得ないほどの重さがある。それは生涯を費やしてももはや不可能なレベルだといってもいい。それはもうどう転んでも不可能なのだ。
 しかしたった一手でそれを実現させることのできる唯一の手がある、我々の文化はそれを温存してきているし、我々にはそういう切り札が残されている……それはつまり死ということによってもたらされる至誠ということ、そういう表現であり、表現様式であり、そういう理解のされ方があるということに他ならない。


 酒の飲みすぎで頭が回らなくなったので、続きがあればまた今度書きます。








この記事へのコメント

  • ざっと読みましたが根本的に勘違いしている
    責任と命の重さを定量的に比較する方法はなく、どこまでいっても想像上の話しかなりません
    2022年11月25日 14:00
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