「こころ」/夏目漱石についての読書感想文その37(殉死の発見)






 こころをもう久しく読んでいないのだが、最近ぱっと思いつくことがあった。あの先生が殉死ということを思いついたのを「殉死! 殉死!」とはしゃいでいた場面があって、あれというのは本編の中でも唯一といっていい先生がはしゃいだ場面なんじゃないだろうか。じゃあ何がそんなに嬉しかったのかということ。


 ・先生の中にある悲観というのは、Kがもしかして自分のせいで死んだのじゃないかということそれ以上に、あんなみじめったらしいやり方でKに抜け駆けしてお嬢さんを手に入れようとしたそのみっともなさと後ろ暗さ、負い目、そうしたものだったのではと思うのだ。それは誰にも分ることではないしお嬢さんにもわからないことなんだけど、そういうことをもうどうしようもないほどに自分というものはわかってしまっているわけであって。そういう自らに対しての醜悪さというものをその後の人生ずっと抱えて生きていかねばならないというその辛さというものが先生にはある。生がそうである以上、死にもその醜悪さは常に付きまとう。そしてそれはもうどうしようもなく自分にはわかってしまうものであり、その醜さをもしかしたら人もいずれ知ってしまうかもしれない。自分という生き物がばれてしまうかもしれない。
 そういう時に思いついた「殉死」ということは、先生を救った。明治天皇の崩御、そして殉死。殉死ということによって先生は忠義の死であるとか男らしい死を手にすることができる。せんせいのみじめったらしい生そのものをそれはすべて救えるようなものではないだろうが、しかし少なくともそういう自らを隠してくれるものを、それも相当強力なものを先生は手に入れた。


 ・それはつまり概念上は外面と内面の分離ということを意味する。外面が殉死によっておおわれる以上、もはや内面の問題が外に表れることは気にする必要はない。どう解釈しても豪壮な男、忠義の男として理解されることになる。これによって先生は確かに内面的に救われた。それは先生が救われることを確かに意味したろう。
 それはつまり、自分がかつて認めたKという男、その男の生き方に最も近づくことでもあったのではなかったろうか。そういうものに対する憧れや近づきたい心をそれは大いに満たしたことだろう。


 ・しかしこの概念はいうほど先生を救うような性質のものだっただろうか?先生は間違いなくこの概念に飛びついたわけである。しかしそれは同時に事態を外面と内面とに分割する方法というものを編み出すことを意味した。それはつまり、Kにも当てはめることができるものだったのではないか。確かに殉死は先生の内面を見事に隠しきってしまう。そして先生は内面と外面とを意識している。しかし同じものがKにも当てはまるとすれば?
 その意味では、「こころ」ではKの内面が描かれることはないし、どう探ってもKは自らをダメな男だとみなしてその悲観から死ぬことを選んだということしかわからないというそれに関して疑問を挟む余地が出てくるわけである。つまりKの死への理解は違っているのではないかということであり、恐らくはKの死を外面的に理解しようていっても内面は理解できないのだが、しかしこの小説の構造を考えると疑う余地は出てくるのではないかということである。
 つまり、外面的にはKはうまく死んだ、しかし内面的にはとてつもない感情の嵐と、そして抜け駆けしたとわかる先生に対して恨みの感情を抱いて死んだのではないか。外面がうまくできているということは、反語的に内面は同じKであるとは思えないほどの荒れようだったのではないか。それをKも隠して死んでいるということに果たして先生はどれだけ気づけたか。


 ・恐らく先生は殉死の概念によってかなり楽になったに違いないし、恐らくはKの心情を読み解くことにその瞬間に成功したんじゃないかと思うし、この構造について全く気づいていないということはないのではと思われる。ただ、Kの内心にもそういうものがあったという可能性を見出すことは先生の気持ちを大いに楽にしただろうし、恐らくは自分とKとが極めて近い場所にいるような気持ちになったのではないだろうか。しかし殉死によって先生はKを超えることができる。Kはきれいさっぱり死んだだろうが、自分は殉死にまつわる豪壮な印象を抱いたまま死んでいける。内面はわからないが、少なくとも外面にまつわる部分においては、自分はKを超えることができる。このこと、つまりKに勝てる、Kを上回れるということも先生にとっては非常に重要なことだったのではないかと思われる。










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