優しさとか温情とかの話






 全然うまくまとまってないがとりあえず書くとすると。
 例えばバスの時間になったとする。10時3分とかに絶対に来とけよという場面なんだが、100%間違いなく遅刻する。あーあ、こりゃあ遅刻だなあと。まあしゃあない、こりゃあもう無理だと開き直ったところが、なぜかバスがやや遅れていて「運がよかったな、乗ってきねい」みたいになったして、そこにあるラッキーであり、その運転手さんに感謝するような。そういうことっていうのは時折あったような気がする。そして自分の中にある何かってのはそういうものに非常に近いような何かでありながら、しかし全く逆の意味を持つ何ものかであるような。そういう感覚というものが常に付きまとっているようでありながら、そういう運の良さ、人の良さに感謝しなくてはならないはずなんだけど、しかしどこかそうではない。これはいったい何なのかと思ったときに、これはつまり便利であるかどうかという意味では確かに便利なんだけど、もう開き直って歩こうと思っている、まあ今日は天気もいいしと思っているときに不意に現れるそうした好転というものがどうもどこかで好きではない、というよりむしろはっきりと嫌っている節がある。別に乗るなら乗るだし、歩くなら歩く、どちらでもいい話なんだが、しかしそこに不意に現れた第三の選択肢というものは世界を少しだけ歪める。そのほんの少しの歪みが積み重なって、それは確かに便利であり、そして優しい世界なんだけど、果たしてその便利な世界の先でオレはいったい何を見出そうとしているのか。今一つ先の見えてこないイライラというものは
どうもこういう事態が積み重なった先で起きているらしい。


 最近ヘビの毒を自分に打ったが、実はあれなんでオレはこんなことをしているのだろう、と我に返るような気持ちがけっこうあって、理性で突き詰めたものと感情を突き詰めたものは自分の中でも全く違うものだということをけっこう痛感させられている。理性的には偉大なことを淡々と行うのみといった感じなんだけど、じゃあ感情的にはどうなのかといえば打ちたくない、死にたくない……といったことを思っているかといえば、実際はそういう感情がものすごく希薄だったりする。別に死にたいと思っているわけではないんだけど、なんなんだろうなあ、よくわからんなあと思っているうちに思ったのは、ああ、これは違うんだと。とうの昔に死んだ感情を呼び覚ますために必要なことで、恐らくこれを通して初めて理性と感情が一体化する、そういうものを求めているし望んでいる、じゃあ注射針が腕に突き刺さるということは、まるで溜まったマグマが噴き出すかのように感情が戻ってくる、そういう事態を望んでいる……なんというかそういう感じがする。そういうことをまあ考えはしてみたけど、自分でも今一つよくわからんという話ですね。






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