筋トレについての考察4(筋トレのその前に)






 ということで新種の筋トレを最近してます。手風に足を鍛えるということでやってますが。ここで問題になるのが靴下というものとその考え方であり概念ということです。これがもしかしたら一番の障害になっているかもしれない。


 ・この問題の何が問題かって、私たちは普通に靴下を履きます。指のないタイプの靴下を当然のように履きますが、でもあれって考えて見たらかなり奇妙なもので、手で考えれば親指以外一緒になるような「手下」(?)を手に付けていることを思えば異常なことだと思いました。そりゃあ器用さも落ちるわということです。要するに、親指以外は1セットになるように我々は社会的に当然のようにして生きているということでもあります。
 じゃあ今から指の分かれた靴下に変えるかと言ったって、あまり気乗りがしない。本当はそうした方がいいんだろうなとわかっていてもこういう選択をしている自分というものを感じます。まあそういう人間なんだろうなということです。そういう一度当てはまった常識的な見方から離れることはなかなか容易なことではない。


 ・これによって本来は指一本一本に渡ってあるはずの感覚がかなりの部分失われているとすれば、けっこう大きな問題だなと感じます。それこそ、足が速くなるという目的にもしかしたらかなりの部分この考えは到達しつつあるのではと思っています。筋力だけではダメだ、闇雲に走れば早くなるものではない、足の器用さというものを意識することでより地面に対して適応できる能力が生まれてくるはずだと。しかしもしもこの社会的な適応、つまりは靴下への適応によってその能力が失われているとすれば悲劇だと言えるでしょう。本来もっと伸ばせるはずの能力に天井を作ることを我々自身が進んで望んで選んでいるというのは。
 ここまで言うと言いすぎかもしれませんが、社会的纏足(てんそく)とでもいう何かがあるのかもしれません。奇妙な言い方ですが、結局我々は靴下を履くことなしに社会を生きられない生き物であるわけですから。だからこの考えを逆に推し進めると、我々は足とその指というものを手のように使いこなすこともかなり可能なのではということです。そんなことはまあ手があるわけですから不必要ということに暗黙の了解でなってはいるわけですが。


 ・そういうわけで、リハビリではないですけども足の指を開く訓練からやっていますが、これがなかなかに痛い。手の指なら普通に横に開けるものを足指をまずは横に開こうというような話ですから、中の皮とか骨、作りそのもの、つまりは習慣そのものを変えようということになりますが、まあまあそう簡単にはできません。何しろ何十年分の習慣が染みついているわけですから。しかし例えば我々が裸足で生きており、平たい石を足指で掴んで、その勢いで前に進むことを思えばまあ普通のことでしょうから、決して不自然なことではない。ただ社会化があまりに進みすぎているだけのことであって。まあこういうことをやって、その結果有意義な何らかの結果がみられたらおもしろいなということは思っています。






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