今思い返すと、ドラクエ3の遊び人→賢者っていうのはうまくできていたなと。これは本気だったのかたまたまなのかはわかりませんが、人生の本質を貫いていたように思われます。ドラクエ3もそうですが、人生においてもですが大体20歳を境にみんないってみれば転職します。子どもから大人になるというわけですが、それを今こうして分析してみると、意味にあまりにもとらわれすぎているなと。賢者は魔法使いと僧侶のじゅもんを両方覚えるわけですが、つまり賢者を極めるのと、魔法使いと僧侶二つを極めるのは同じということになります。しかし決定的に違うのは、賢者は剣を装備できる、すなわちそこそこ力もあるということでしょう。魔法使いから僧侶へ、あるいは僧侶から魔法使いへ。結果的には同じに見えますが、でも賢者は圧倒的に違う存在です。意味だけを追い求めても、魔法使い済の僧侶と、僧侶済の魔法使いは賢者の下位互換でしかありません。
・でもそれ以上に決定的に違うのが、遊び人としての経験があるかないかですね。これはリアルな話ですけれども、最終的に何が決定打になるかっていうところで、賢者の下位互換としてのそのふたつを打ち出してくる例があまりにも多いなと。ところが「いやいや、二つとも経験してきてますから、賢者であろうとなかろうと同じでしょ?」という錯覚があるというケースが多い。しかし下位互換は下位互換でしかないということです。
でもそれでさえまだ決定打というほどのものではなくて、やはり決定的に違うのは遊び人をレベル20までやってきた経験ですね。これがあるかないかというのは本当に大きな違いで、人生におけるまさに決定打といってもいいものだと思います。遊び人として生きてきた感性、経験、人生観。それらをじゃあどこまで生かせるのか。なんというか、このリアルにおいても遊び人は遊び人でしかなく、最低な立ち位置として扱われている、そして意味のない存在として把握されているように思いますが、でも実際は全然違うんじゃないかなと。そういう意味で、我々はつい意味にとらわれているからこそやれ魔法使いだ、僧侶だと己を主張しているように思いますが、それは意味じゃなくてムダのなさしか表してない。その人に隠された武器があるということが、その武器の強さがあることが忘れ去られている。そういう風に思いますし、そういう実感があります。俺は今まで戦士してきた、武闘家してきた、魔法使いも僧侶もしてきたと。意味ばかりとらわれますが、意味という意味においては下位互換なんていくらでも表せるわけです。しかしその中でも遊ぶということには特殊な立ち位置があると。
・……と力説したいところなんですが、「おー確かにあるよねえ」「遊ぶことは大切だよねえ」という一般的な理解でこの話は多分理解されてしまうように思われたので、いや、そうじゃない、違うんだといいたいんですが、その先を主張するほどのパワーがないのでここらでやめときます。
この記事へのコメント
なんというか、遊び人気質の人間ってのは、要領がよくて器用なんだと思います。普通の人間というのは、何かを極めることで個性を作りますが、遊び人は極めなくてもなんでもできてしまう。
そうした人生の不条理のようなものをおっしゃられたいのかなと思ったのですが、見当違いであれば申し訳ないです。
きんた
遊びが役に立つからってのは重要なご指摘でしょう。
そして一般的なこと、普通の仕事ってやはり同様に役に立つわけですが、しかしなぜこうも日本社会が行き詰っているかを考えるに、やはり役に立つが故なんだと思います。役に立つし、給料もらえるし、安定しているし、非の打ちどころがない。みんな真面目だし、きっちりやっている。
しかし非の打ちどころがないのになぜかここまで行き詰っているとすれば、そもそもの前提が狂っている可能性はあると思います。有用性の意味なんてまあその程度のものでしかない。
とすれば、遊び人はそういう価値観に素直には従わないわけです。戦闘中という最も重要な場所でさえ遊んでしまう。全滅の可能性を考慮しない。ある意味、真に覚悟をもって遊びきっていると言えるでしょう。ある意味最もバカなんですが、客観的には役に立たないわけですが、しかし案外主観的にはそうではないかもしれない。そういう何かを見出すだけの何かを遊び人は獲得しているかもしれない。
ならばそういうふざけた姿勢が悪いのかと言えば、意外とそうではないのではないかと。むしろ既存の価値観に対抗し凌駕するだけのものをそれによって示す可能性は十分にあると思います。それが遊び人にとっての賢者という姿なのかなと思います。
我々がこの社会の行き詰まりを突破することがもしできるとすれば
この姿勢だと思います。徹底的に遊びきったがゆえに全く人と違った視点をもち、覚悟をもち、それによって従来の価値観を越えるものを見出すと。客観的にではなく、主観的には既存の価値を遥かに越えるものを見出すだけの力をもつこと。
ある意味ではそうしたおふざけを許容するだけの余裕をこの社会が持つことが必要ってことかもしれません。
まあそれに全員が全員賢者になれるわけでもないですし。現実は一生かけて賢者になることのない単なる遊び人もいますので(笑)、そういうのを見抜く目も必要かもしれませんね(笑)
おっしゃる通り、ほとんどの人間は賢者になんてなれないし、その賢者になれる素質のある遊びができる人間ばかり世の中が持て囃すのは、不条理極まりなく思います。勇者のパーティーがそれぞれの職の役割をこなすことで魔王が倒せるように、世の中もみんなが役割が持てることで、お互いに尊重し合い、発展していけるようにしていきたいものですね。
きんた
そういう意味であればSFCのドラクエ3が最も近いかもしれませんね。
性格制度が導入されて、例えば切れ者の戦士はクビになりましたし、力自慢の魔法使いもいらないですよね。そういう意味で細分化されて自由度は増しているはずなのに、むしろ多用性は急速に失われている、そしてクビになった彼らは表に上がってすら来ない、上がる権利すら剥奪されているという現象が起きています。一億総活躍を現実化したはずが、かえって多様性どころか一握りの人材以外は完全に淘汰されているというですね。
皮肉にも最優秀以外はクビという世界になってしまったという。
でもじゃあ現実はそんな優秀なのかというとそうでもない。それどころか全くそうではないと。
多分そういう欺瞞に満ちた世界に嫌気がさして、遊び人道極めるかーと世の中にそっぽ向こうというのがこの記事の根底にある気がしますね(笑)
そういう意味では根っこの部分は同じなのかもしれませんね(笑)