大欲は無欲に似たりとは言うものの、これほど現実とこの言葉とが一致しない例も珍しい、ということをまあ今日は一日考えていたなと。プラスに言えば、あまりにも大きな欲望を持った人物は小さな事柄に拘泥しない、つまりそれだけ器量が大きいのだ、ということを言いたい言葉になる。これはプラスの解釈。
ところが現実においてこれを見てみると、この言葉とは真逆な印象を受ける。
即ち、無欲は大欲に似たり、ということになるわけだ。
これはまあ明らかにマイナスな印象となる。大欲は無欲に似たりが言いたいことが、大人物はそんなつまらないことにいちいちこだわらないものだよ、ガハハというようなプラスなニュアンスを持っているとすれば、こちらは無欲さ、その人に欲望がないということは実はかなりの大欲を持ったのと全然変わらないんじゃないか、というようなことになる。なぜこうした現象が起きるのか、それも頻繁に起きるのかということについて考えていた。
・「欲がない」というのは欲望の値がゼロですよという意味もあるが、それとは別に多分欲望はあると思うけど全然把握してないから0か100かわかりませんというような意味もある時がある。だから欲がないということはゼロですという意味なのか、本当はわからないんだけど0か100かでいえば多分0だろうと思うから、一応ないですと答えられる場面というものが多い。
しかしそうした人というのは意外と危険で、例えば酒飲みでやらかす私みたいな人間を例にすると、酒が好きでビールを一本飲みました。美味しいから二本目いきました、そしてもう一本だけ……というようなことをしてやらかしてしまうとすれば、その人は酒で結構痛い経験をしてきたことになる。それも何回か繰り返していれば、オレ酒が100点満点中100点くらい好きだわ……と思い、反省をする。そうすればそこには100点からの下げのベクトルというものが生まれる。そうなると、100点は危険だから80点くらいにおさえようという自省心が生まれる(こともあるし、まあ生まれないこともある(笑))。こういう状態というものを把握しながら人は皆社会に適応していくのではないかと思う。
しかし酒を飲む経験が全くないということは危険で、酒嫌いですと思っている人が初めて飲んだりした日にはとんでもなくやらかしてしまったりするものだ。あーこんなに酒飲むんだとか、飲みすぎちまったとか、今後は控えようとか、もう一生のまないとか思ったりする。まあそれでもまた飲む。そして痛い目に遭う。これを繰り返すことでほどほどというものを知るのだ。
・これを「金」ということに置き換えてみる。
欲がないということは、本当に欲望がゼロというわけではない。=であることを意味しない。それを大人物の証拠だと思っていることは非常に危険で、実際には金と絡んであーでもないこーでもないとやってきた経験がないことに等しかったりする。そういう日血が手にする金というのは、まあ0を意味することはまずない。欲望0だからと募金箱に全額お金を突っ込む例を私は見たことがない。そこまでいくともう狂気の沙汰なのだが、金ということはこのようにして必ず100から0のうちのどこかに収まる。欲しいものがあれば買えばいいし、いらなければ買わなければいい。
で、そういう人が急な出費を迫られた時に起こる現象というのは「無欲は大欲に似たり」なんだと。そういう印象を与えるということになるのではないかと思った。いや、100点満点中100あるわけではないし、それを意味するということではない。30くらいしか欲がない人であっても、そういう時にケチることというのは60点、つまり思っていた二倍ケチっているように見えるとかそういう現象が起きる。なぜそうなるのか、欲がないがために経験がない、経験がないがために余裕がないために恐らくはこうした現象が引き起こされるのではないかと。
だから欲がないということは決して褒められたいいことではないと。欲がないがためにいろいろ経験してない。それによってちょっとしたことで焦って慌てふためいて、無欲が大欲に繋がる。そういうことがあるのではないかと。
そういうわけでまあ考えて見ると、大欲は無欲に似たりが一周ぐるっと回った末に、無欲は大欲に似たりという現象となって各地で起きているのではないかなということで。
この記事へのコメント
ココ
世の中にあるいいものとまだそんなに出会ってないだけで、これが出会った日にはタガがはずれる気がします(*´罒`*)
きんた
> ココさん
>
> 欲しいものはそんなにないっていいつつ
> 世の中にあるいいものとまだそんなに出会ってないだけで、これが出会った日にはタガがはずれる気がします(*´罒`*)