ロシアが夏には日本に攻めてくる予定だとかいう噂を最近聞いて、大変なことだなあと。まああくまで噂でしかないし、確固としたものなんてのは何もないわけだが、そうなったら大変なことだよなあと思いつつも一日勉強をしながら過ごしていた。そんな中、ふと思い出したのが「こころ」の話だった。あれも一時期は毎日毎日繰り返し読んだので、一言一句とまではいかないが大体の話の流れは気づけば頭に入っている。
先生が明治天皇の死関連で殉死という言葉を聞いて、「殉死!殉死!」とはしゃいでいたとかいう一節を思い出した。ほこりをかぶったような古臭い概念に新しい意義を得たとかなんだとか言っていたが。ふとなんかその一節を思い出した。そして一体あの先生が何を言おうとしていたかということをなんとなく思いついた。客観的に見ればただ普通のことが流れるだけだが、もっと主観的な目線で見ればあれというのは救済、あるいは逃げ込み、そういうものがあったんだなあと。それというのが異様な現実味をもって迫ってくるのを感じた。あの先生もなんだかんだと言いながらも、実際のところは最後の最後まで二語切ることは十分できたはずだ。しかしそれを選ばなかった。そして「殉死」といういかにも古臭いものの中に逃げ込むことを選び取ったわけだが。夏目漱石がそういう配置をしようとした、そこにある妙味みたいなものが初めてリアルに感じられた。
そもそも文学作品という閉じられた世界をわざわざ客観的に読まなければならない法があっただろうか。まあとんでもないことを言いだせばそりゃあ問題だろうが、別にそこまで破綻してないのであればそういう飛躍とか付け足しというのはあったもいいものじゃないだろうか。それをやれ客観的とかいって全部切り落としてしまうものだから貧相な結果しか生まないのではないか。そしてそういう閉じられた世界のその閉塞感に包まれた世界こそが表に出してみるととてつもない威力を持っていると。そうなるべきであって。そういうのがなくてやれ「非の打ち所がない」なんてのを掲げてしまうからこそ毒にも薬にもならぬものばかりが生まれるのではないか。
まあ久々に読んでみようかなあと思ったという話ですね。
この記事へのコメント
ココ
昔の文学の言い回しが結構好きです。
きんた
私もじゃあいろいろ一段落ついたら三四郎……というか夏目漱石読んでみましょうかなあ。
> ココさん
>
> 最近三四郎読んだばっかりなんですが、こころも読んでみたくなりました。
>
> 昔の文学の言い回しが結構好きです。