というのを最近考えるようになった。
これがただ単に教えて点数を稼ぐだけ、丸暗記するだけでいいとなれば話はものすごく簡単に見える。ところがこれだってその「覚えればいい、丸暗記すればいい、超簡単」というその気づきがかえって人生にとってはマイナスに作用する可能性があるということ。それを思ったから余計に難しいと思うようになった。
よくある
「どう思う?」「なんでだと思う?」という教育、あれをまどろっこしいとよく思う方だしさっさと答え教えろよと思うタイプでもあるのだが(笑)、あれというのはそれなりの理があって、これによってただ教えて詰め込むだけではない、教えられる側の自発性や能動的な態度というものも一緒に伸ばす効用があり、これというのは長い目で見た時にものすごくプラスに働くものだなと。逆に丸暗記でうまくいく程度の人生というのは、徹底的にこの自発性や能動的な態度というものが刈り取られていることがあり、これが10年20年単位で見た時に人生にとってものすごくマイナスに作用している。
そういう意味で、教えるということでその場だけうまくいく方法を教えるということはその場は良くても10手先くらいでマイナスに働いてくることがある。いや10手先じゃなくても2手先くらいでは既にもう破滅の芽になっていることがある。教えるということはこの破滅の芽みたいなものをいかに扱うかに本質があるところがあって、これは教えるということの持つ隠れたテーマになり得るんじゃないかと思った。だから教えるということの難しさというのはここにあって、「どう思う?」という迂遠な教え方をして反感を買って(私みたいなタイプは特に反感を持つわけですが(笑))一手先でうまくいかないことを選ぶか、あるいはそれを選ばずにストレートに教えて10手先で破滅しても「まあオレには関係ないし」というか。一体どういう破滅を選ぶかということは重要なことだと思う。
これは例えばいわゆる勉強らしい勉強を積み重ねてきた難しいことにひたすら挑戦してきたタイプでも、好きなことだけをやって得意分野だけをやってその能力をガンガン伸ばしてきたタイプでも見受けられることで、要するにそれを通してどこに自分の主観的なものを持てるか。そうやって主観的な疑問を挟んでいけるか、それをどうなのかと考えていけるか、それを解決することで納得していけるか。結局はそういう主観的なものの積み重ねが人生においていかに重要かということに行き着くのではと思っている。客観的であれといわれるほどの客観的な物って何ということだし、客観的な疑問というのはあるのかもしれないけど、でも本当に実感を伴って「なんで?」と思えるのはその人個人なわけなので、そういう主観的なものというものをもっと大切にしていっていいように思うし、それこそが腑に落ちるほどの納得感につながるわけだし、客観的なものというのはあくまでその先に目指されるべきものであっていきなり「主観性<客観性」と説かれても「いや、なんで?どうして?」となるべきだしそういうところを緻密に解消していった人は強いなと。
そういうことをもっと意識していくようにしていかないとダメだなということを思ったということですね。
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