学者かプレイヤーか3






 学んだ人の強みというのは、一つの事柄を決めるのにもたくさんの材料をもちよってプラスならこう、マイナスならこうと吟味できることがあるということになると思う。これが学んでないと例えば化学はどう、物理的にはどうと言われても私も学んでいないので吟味のしようがない。しかも詳しい説明を受けても全くわからないということが起こる。わからないので材料にしようがない。そういうわけで学ぶということは学ばないことに比べて決定的に物事の見え方が変わってくるし、①まず学ぶ、それは②吟味の仕方へと繋がり、そして③結果の出力へとかかってくることになる。まあこういう流れがある。こうやってプラス要因なりマイナス要因なりを考えていける、つまり秤にかける力というのが養われるというのが学びの一つの効用ではないかと思うのだ。


 ・しかしそうならない場合というのもある。即ち最初から結論が決定している場合である。これをやったらトクだトクでないというのはもちろんのこと、プラス要因はこれこれでマイナス要因はこれこれ、となると結論はどうなのかと考えられるということは、つまり結論に流動性が与えられるといってもいい。ところが、結論が最初から決まっている場合はこれに当てはまらない。やらない、めんどくさい、もっとほかにおもしろいことがある、なんでこんな煩わしいことをしないといけないのか、となるとそもそもそこには考える余地がない。他にも怖いからやらないとか、失敗したらイヤだからやらないとかいうのもあるだろう。従って結論というのはその場合最初から出ていて、考える余地が全くない場合ということになる。
 この場合バグが起こる。めんどくさいということは当然言わないわけだが、それっぽく理屈はくっついてくるのだが材料がいくら増えても吟味の時間や手間暇労力がいかに増えても、どう転んでも結論が変わらないという事態が起こる。こういう場合は一体どう捉えるべきかと言えば、その結論がどのようなものであるかは不明だが、結論がもうすでに決まっているのであって話し合いはムダということになる。③の結論が決定しているのであるから、①学ぶという過程がムダだし、そうなると当然②吟味する過程も崩れる。


 ・ではこういう事態が発生した時にどうなるかといえば「結論、なぜなら~だからだ」という形で述べられることにはなるのだが、これが要するに「めんどくさい」を言っているわけで、こうなるといくら材料を積んでも吟味しても全く意味をなさない。ゾンビに対して殴っても効かず、蹴っても効かず、火を使っても水を使っても躊躇しないというのと同じことが起こる。つまりこの場合の話し合いは完全に死んでいる。これが学んでない人であれば、オモテとウラ、そしてウラには「めんどくさい」を隠し持っているというねじれが存在することはない。下手に学んでいるがために、オモテとウラを使い分けることになる。こういう現象というのは多々起きる。つまり、学んだがゆえに誕生する「ゾンビ」現象というのは多々起こるものだと思うし、これはそう珍しくもない現象だと思う。やらない理由など少し学べばいくらでも捏造できるというわけだ。


 ・結局この話を通して何を目指すかと言えば、プレイヤーと学者視点との合一ということになるわけだ。野球選手なら学者視点がプレイヤーとしてマイナスに作用することなどまずないだろうが、しかしこれを併せ持つことがいかに難しいかということでもある。
 ①学者として生きる
 ②プレイヤーとして生きる
 ③学者の視点を利用したプレイヤーとして生きる


 学者として生きるだけでもプレイヤーとして生きるだけでも片手落ちではないかということだが、しかしじゃあ③を目指そうよというのは簡単だが、下手に学んだせいでやらない理由探しがものすごくうまくなって、その結果①や②以上に可能性を発揮できなくなる現象というのは良く起きているように思うのだ。まあ大体は簡単で「めんどくさいから」なのだが。二刀流を目指すのがベストに思うのがいかにも妥当なように見えて、実際には人の可能性を大きく狭めるのが二刀流だったりするのではないかと思っている。


 が、最終的には人にかかってくるので「二刀流が悪い」と仕組みが悪いことにするのもあまり良くない事なのかもしれない。やる人はやるわけだから。
 まあそれはともかく、学ぶこと一つでもこうなのだから、学びが人にとって絶対にプラスに作用する……などということというのは意外と少ないのかもしれないなあと思ったという話。








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