学者かプレイヤーか2






 夜に野球とかみてると
 「あー何やってんだよバカ、ここは松井だよ松井!」みたいなシーンというのは多いと思うのだが(まあ今どき松井はないか(笑)例えがシ古くてすんません)、ここでその某松井以外の選手が打ち取られてしまいベンチに戻っていくとする。
 「だから言ってんだよここは松井じゃないとダメなんだよ」


 こういう感じで我々は過去に対してある意味では最強になれるし、過去と向き合って最強になれるということが大切なのであって。その姿勢というのが翻って結局は未来に生きると、こうなる。未来に向かうのに対して何も持たないのでは無力だが、過去を勉強して対策を持っておくということで我々は確かに未来に対して強くなれるのだ。


 しかしじゃあそれは未来に対峙するのに対し、「過去さえマスターしておけば大丈夫」と言い切れるものなのかといえばそれは怪しい。というよりそれは間違っている。未来にくるものは過去にそのすべてが明らかにされているというのであればそれはそうなのかもしれないが、そんなことはほとんど起こらない。過去をマスターして未来に生きる要素はせいぜいが50%程度なのじゃないだろうか。確かにそれは要素としては巨大であるかもしれないが、しかしすべてではない。しかしどうも妙に起きる齟齬(そご)といったものがあり、それが一体何に起因しているかと言えば、「過去に対して我々は最強なのだから、過去さえマスターすればいい」というものだったりする。何しろ最も効果的・効率的で成果を上げるにはベストな方法と言っていい(まあ他に何があるかと言えばかなり難しいというのもある)。しかしではそれがイコールすべてかといえばそうではない。


 この問題に対して我々は一体どれだけ折り合いをつけられるか、折り合いをつけようとするかというのは非常に重要なのではないかと。
 要するに50%もあるよ=だから最強だよ、他にやることもわからないしとりあえずこれだけやっとけばいいんじゃね、という姿勢で挑むか、でもたった50%でしかないのだから、過去をやるのはもちろんのこと他にできることは考えて見つけださないといけないんじゃという姿勢で挑むか。これによってその未来は大きく分かれることになる。


 過去に対しては既に網羅したから最強である、すなわち未来に対しても最強だ、オレは最強なんだという自信の裏付けが過去のみというケースがよく目にするんだけど、でも実際のところこれはかなりの場合うまくいってない。なぜかといえば、これが陥る境地というのは実質的に「松井だよここは松井出せよ!」というのと同じで、松井を出したら絶対にホームランで絶対に逆転勝利となるかはわからないが、しかしその可能性が最も高い以上はベストな解答だとは一応いえる。


 学者は当然のことよく勉強し研究している。過去のことなどしっかりと網羅し何を聞かれてもスラスラと出せるだろう。しかしそれが人生を生きるプレイヤーとしてどうかといえばかなりの脆さを持っていることがある。この脆さをどう表せばいいかと思っていたが、恐らくは過去さえマスターしておけば最強、未来も恐れるに足りずといった感じだが特に変化の速いこの昨今というのもあるし、過去の持つ重要性がかなり薄れているという事情が大きく作用している気がする。


 だからどういうことかといえば、「過去さえマスターすれば人生は最強だ」というこだわりであり肥大した固定観念が実は大きく足を引っ張っていて、人生を生きるプレイヤーとしては大きな障害になっていることがある。これを野球で例えるならば、過去の数千万球のすべてを丸暗記してきた学者と、とりあえずプレイヤーとして打席に立ってきた人(この人が全く研究していないということはないと思うが)。この二人が勝負したならば、打席に立ってきた人が勝つんじゃないかなと。
 根拠は全くないけど(笑)


 だからテレビ見ながら「ここは松井だよ松井!」という人が意外と最強ではなくて、そんなにいい結果を残してこなかったとしてもとりあえず打席に立ち続けるようにしてきた人がいるとすれば、こっちの方が強いということが起こるんじゃないかなと。

 なんかまとまらない。というか考えの詰めが甘い。
 最近寝てないからなあ。さっさと寝よう。思いついたことをうまく文章にできない時は寝不足なのかも(笑)









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