学者かプレイヤーか






 ・学者かプレイヤーかというのは良く目につく一線な気がする。つまり学者≒評論家であり、それはすなわちプレイヤーではないことを意味する。プレイヤーからは足を洗っている。そういうわけで、プレイヤーとして果たすべき義務や責任からはオレは免責されている。そしてそれは実際かなり受け入れられている。野球解説者などは己の経験を活かして今の状況を分析し解説する。そういうことがあるのでこの人の引退は認められている。引退しても、そこには「経験」に裏打ちされた「目線」がある。なのでこの人はここにいてもいいのだと。その意味でこの人はもう解説者だし、プレイヤーではない。そういうのはこの社会で普通に受けいられているような気がする。至極当たり前、普通に見えるけど、でもこれっておかしくないかと最近違和感を持った。


 ・その解説者は引退して解説者になるだけの知識と経験がある。でもその人は単に引退したのではない、解説者であり、評論家として新しいプレイヤーとしての人生を歩んでいる。その意味では野球は引退したかもしれない。でも人生に引退はないのだ。だからこそそれを活かして生きる道を選んだわけだし掴み取っているといえる。引退してもう後は現役時代の知識と経験を活かして生きていく、そんなことをやっていたらテレビ界から追放されることになるだろう。つまりここにあるのは「引退」の錯覚だといえる。引退ってのは単に辞めたわけではない。まして現役の貯金を食い潰して今後をダラダラと生きていきますという意思表示ではない。解説者として、野球評論家として、自信の経験と知識を活かして生きていく。つまり引退ではなく転職、もっといえば人生を生きるプレイヤーとしてはまだまだこれからも現役であるということ。そこにはそういう意味合いがあるし、引退=ラクして生きていける表明というわけではない。


 ・それを思った時に、知識があるということはけっこうラクできるツールとして使われることが多々あると思う。つまりそれは「引退」というわけだ。本当は本業をやっていたんだけど、でも今はもう引退した。引退したんだけど、でも知識はある。いや正確に言えば知識ではなく、それを学んできたというポジションがある。そのポジションから何かを言う権利は消えないし、輝き続けるということなんだけど、でもそれをやっているということは何かといえばそれはもうつまり現役は引退してますということであって。
 現役を引退しているけど、その知識を使って好き勝手いう権利は残されている……でもそれが残されているっていうのはつまり、上に書いたような解説者だってやってるじゃんということになるわけだけど。でも厳密に見ていけばそれらはもう全然別物なんじゃないかと。だから評論家とか解説者っていうのはプレイヤーに比べて一段低いような立ち位置が与えられているとは思うものの、解説者というプレイヤー、評論家というプレイヤーと考えるとそれはそれですごいことではないかと思うし、少なくともデタラメを好き勝手無責任に並べているし、並べる権利があるということではないと思うのだ。


 その二つ、つまり突き詰めれば人生からも引退したのか、それとも人生の一プレイヤーとしてまだやっているぞという自負があるのか。この二つの違いというのは非常に地味なんだけど、まだよく見分けられていないものの一つなんじゃないか。というようなことをふと思った。








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