先日実家に顔を出した時に異常だと思ったのは、祖母が執拗に同じことを繰り返すことだった。まあ99とかだし、それも仕方ないかと思いながら、話を聞いているとなんか少しだけニュアンスが違うような? というような違和感を感じたのを覚えている。年を取ったらしつこくなる? 少しそういうのとは違うようなと。
・爺さんが死んだのは20年くらい前で、それからは家の一番年上ということで妙に気合入れて張り切っていたのをなんとなく覚えている。しかしその気合の入れようというのも少し間違っていて、よくある二枚舌作戦というのをやっていたのを覚えている。あれをしてくれ、と言いつつ、それをするとやりすぎだ! と怒る。これを繰り返す。しっかりしている人というのは意外とこの二枚舌作戦をして手綱を取り、まるで馬を飼いならすように進め、いや進むな、止まれ、いや止まるなというのを言うものだ。これというのは非常に効果的で、馬ならともかく人ならそんな絶妙な機微に絶妙には従えないので、結果的に人を屈服させるのにものすごく効果的である。しかも傍から見ていても印象は良く、ああはきはき言っておられるわと。個人的にはまあそういうのは下らない工作だと思っているので、一番上になるとこうやって「オレは偉いんだぞ」とやらないと済まなくなる悲しい生き物が人間なんだなあと思ったことを覚えている。
・しかしそれも恐らくは事態の反面で、そもそもうちの祖父というのはかなり率先して物事を押し進める人間だったように思う。そうなると必然的に祖母は補佐役ということになり、それはつまり自分が率先して物事を決断するというもの凄く難しく負担の大きい立ち位置に回らないということを意味してもいた。そうして率先する人をささえる役割。そういう人が全くやってこなかったそういう役をいきなり引き受けるとはどういうことか。
恐らくは常に強大な不安との戦いだったはずだ。若い頃から自分の意思で物事を決め続けるのとそれとは大きく違う。祖母のそれの意味するものは全く真逆で、恐らくはそれの意味するものは表面上は強権的なリーダーシップ、しかしその本質はとてつもない不安であり、ある意味ではそうして頑張ることが何を意味したかと言えば、とてつもない不安との戦いだった、いやむしろそれによって不安をものすごく大きくすることに繋がったのだと思う。そうして肥大化した不安は、つまり責任感の大きさとそれに伴うマジメさも意味していた……しかしそういうものを研ぎ澄ませるための時間や機会を大きく他人に委ねてきた結果がこうなるのだろうか、と思ったことを覚えている。それはラクをしてきたということとは少し違うとは思うものの。
・その時そうしてオレが思ったことは、オレは自分の意思で今生きようとしている、ということはその生き方は決して間違ってはいないということなんじゃないかということだった。
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