サイコパスの血






 まっとうに生きよう、マジメに生きようみたいなことを思っている反面、人間という生き物は生まれてこの方「殺す」ということから離れて生きられている期間というのはほぼないに等しいんだよなと思ったりする。例えば江戸時代などは親の敵(かたき)となれば殺すのが当然だし、殺して名誉をすすがなければ「恥だ」というような文化があったと。そうなるとイヤでも相手を殺すために出立しなければならないし、殺して「よくぞやった……!!!」と涙、涙とならなければならなかった。そういう文化は明治時代にも当然あったはずで、一応新政府は法律を出してかたき討ち禁止令というのを出していたはずだが、そうでもしなければならなかったほどに文化の厚みというのはあったわけだし、そういう文化がある以上は、法律を出したところでその効き目が果たしてどこまであったかは極めて疑わしい。要するに、社会的に認められる殺人というものがあったのはこの日本でもつい100年程度の期間に過ぎず、そもそも殺すということに関して見れば人は殺さないまでも我々は動物を殺さずに生活していくことは不可能だといっていい。ある意味では殺すことによって我々の文化や社会は成立していると言えるだろうし、それが間違いだというのであればこれはもう流行りのヴィーガンにでもなるしかない。ところがそのヴィーガンでさえ肉から栄養を取れないわけだから、栄養の摂取量が少なすぎて脳が委縮しているというデータも最近では出てきているほどである。


 まあそういうわけで、我々の生活というのは「殺す」ということなしには成り立たないし、殺すということは我々の生活を満たす必要悪だともいえるだろうし、殺すことこそが我々の生活を成り立たせている基盤だともいえるだろう。そういう生き物を10万年100万年単位でやっているのが我々だと。そしてそう思った時に、100万年はそうであったのに急にここ100年で「我々は一切殺しません」というのはかなり無理があるといっていい。確かにまあいきなり「じゃあ人を殺してくださいよ」と言われてもムリなのだが、しかし我々の中に宿る100万年の血はいざとなれば人を殺すような性質をきちんと持っていると考えるのが自然だろうし、またそういう性質があるからこそ我々は生きてこられたとも言い換えることができるだろう。
 「うわーサイコパス診断で点が高かった、やべー」みたいなのがあると思うんだけど、80歳くらいまで生きたとして、一回もそういうことに遭わなかったとしても、99%はそうでないとしても、それでも我々の血にはサイコパスを許容する性質があるだろうし、いざとなれば99%の普通をあっさりと捨てて、裏切った末にとてつもない残虐性を見せることがある。それこそがサイコパスの血なんじゃないだろうか、とふと思ったと。

 ずっとそういうものがあることをいやだと思って生きることもできるけれど。否定してオレは違うと言って生きることもできるわけですが。積極的にそういうのがあることを受け入れていって、我々の血に秘められた一種のスパイスみたいな、隠し味みたいなものだと思って生きた方が案外人生おもしろいんじゃないだろうかなという話ですね。



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