絶望との向き合い方






 ということで、最近頭文字Dがやってたのでせっかくなんで全部見た。マンガではざっと全部読んでいたが、アニメだと全然印象が違っていたのが意外だった。というかこういう躍動感のあるものはマンガよりもアニメの方がずっと向いているということを改めて思い知った気がする。
 あまり良くないけど一応貼っときます。


 ・オレがかつて個人的に大学に通いながら漠然と考えていたのは、絶望の克服の仕方だったように今なら思う。今の言葉で言えばそうだが、当時はそれが解らなかった。宗教や科学、あれとあらゆる数千冊の本を読んできたが、そのどれもがその問題にこたえるにはあまりにも無力だった。単純なことだけど、人は絶望を乗り越えられるようにできていない。人が生きていることというのはたまに絶望に直面することもあるが、しかしじゃあそれを解決できるように最初から能力付きでできているかといわれれば、それは全く無関係なのだ。「時間が解決する」というのは実際には大嘘で、現実にそれが意味するのは忘れるくらい大したことがない問題だったか、あるいは寿命が尽きるまで延々と無力なままあがき続けるしかないということ。そしてそのくらい人は無力な生き物だということ。絶望というのは言ってみれば心の中が荒野になるまで焼き尽くされるか否かという大問題なんだけど、人はそれを消火することもできないほどに無力。それを称して人は「時間が解決する」などというだけの話。当時あったその課題とその方向性というのは今思えば案外かなり正確で、現実を見るとかなりの人が絶望によって心を食い荒らされている。しかしオレと違うなというのは、どこか時間主義、言葉を変えれば他力本願で、いつかはきっとこれは収まるものだと誰もが皆漠然と信じている。しかしじゃあそのいつかというのは一体いつなのか。5年後か、10年後なのか。それもわからぬまま、時間への信仰だけを頼みとして毎日を過ごす。そういう例が意外に少なくないことに気づいたのはつい最近のことだ。そしてそれに応えるべき人文というのはあまりにも無力だと当時から漠然と痛感していた。


 ・そういう中で頭文字Dに出会ったのは本当にたまたまだったんだけど、この話が言いたいことというのは、車やレースに関して全くの門外漢だったオレに衝撃を与えた。前に書いてからずいぶんと時間が経った気がするけど、人生とは何か、人とは何か、生きることとは何か
どうしたら人は絶望を乗り越えられるのかというのを時々漠然とながら考えてきた気がする。今思えば、絶望していなければ開けた可能性の多さにビビるほどで。絶望する。動けなくなる。それが次の悪い結果に繋がる。そしてまた絶望する。これを繰り返してきたのがオレの20年なんだと思う。
 そうして思うことは、人生はドミノだということ。絶望というのはそのドミノをほんの少しだけ悪い方に倒すきっかけなんだということ。絶望した時に大切なのは、そのドミノをプラス側に少しでも倒すような方向性がものすごく大切なんだということ。それが新たなる絶望を防ぎ、ほんの少しだけ人生はいい方へと向かう。生まれたプラスが新しいプラスへと繋がるというその流れであり、その繰り返しが絶望から人を立て直すために重要な働きをもっているということだ。高橋涼介という人がやっていることは結局のところそれに尽きるのだけど、ただこの人は言葉が難解で、アドバイスをするにはやや向いていない節がある。ただこれを通して作者が言いたいことというのは結局のところそれに尽きるのではと思う。


 ・オレがその時絶望側へ傾いたのは言ってみれば「たまたま」だった。人によってはもしかしたらそこから希望を感じたかもしれない。いや、希望を感じるのがむしろ妥当だっただろう。しかしそれでもオレは絶望の側へと迷い込んだ。そして20年が経ってたまたま解決し、克服することができた。しかしこれは一円にもならない。むしろお金に換算するならばものすごくマイナスな話だと思う。時間に換算しようとしまいと時間は当然もう元には戻らない。
 しかし同時に思うこともある。人によっては80歳90歳になってようやく生まれて初めての絶望に直面するケースがある。中国のかつての覇者である桓公は、覇者としての栄光も名誉も得た、子孫も繁栄した。しかし死んで遺産相続でもめて内乱が起こり、子孫は殺し合い、国は乱れ、自らの死体にはうじが湧いても誰も顧みない有り様だったという。覇者としての最期が無残だが、そういう種類の絶望に人が生きている間に直面しないという保証はない。
 つまりは何か。絶望していないというのは決してラッキーだとは言えない。挫折の少なさは経験の少なさに直接繋がる。ちょっと転んだだけでもう立ち直れないという結果を引き起こすことに繋がりかねない。いくら実りの多い人生であっても少なからず転落は起こる。その時にどうするか。転落に対する真の対処ができないことが絶望へと人を引きずり込むのはそう難しいことではない。そういうことに対処できる力を得たということは決してマイナスなことではない。むしろとてつもなく強いことではないか、これこそがオレが得た力であり、これは真の財産なのではないかとすら思う。



 ・そしてもう一つのプラスはこの高橋涼介という人の内面に関心をもてたということ。もしも絶望していない人生だったら、オレが絶望していなかったとしたら、きっとこの話はよくあるちょっといい話で終わっていたんじゃないかと思う。もしもそうであったならば、オレはここまで考えていなかった。そうしたら考えることもなかったし、得るものもなく、ましてこうして書くこともなかったと思う。絶望はマイナスでしかないが、しかしそうしたことからもプラスに繋げられるきっかけを持てたことは非常に良かったと思っている。絶望したからこそ持てるアンテナもある。



 ・そしてもうひとつだけどかなり意外だったのは、あまり関係ないけど最終決戦で高橋涼介が口にした弟である高橋啓介の存在感。これがかなり意外だった。才能はあったけども、あくまで藤原拓海に劣るドライバーだというその立ち位置。実際に負けていることも大きいのだが、「啓介は藤原以下」という見方がこの話の底で実はずっとくすぶっていたと。そうしてようやく最終決戦でようやく努力の甲斐あってその才能が開花することになる。藤原は天才だから常に勝つんだけど、それは当たり前の話で、この話は実は啓介の努力物語だったという。その意味では、啓介は確かにDのドライバーとして選ばれているわけだけど、なんでここにいるんだ、本当にオレはベストなのか、藤原には負けているじゃないかという葛藤が常にあったのではないかと思ってみるとまた面白い。だから啓介については全然意識したことがなかったけど、ものすごく肩身が狭かったんだねと思ったという話ですね。





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