須藤京一






 なんか頭文字Dのファーストシーズン見放題ってのがやってましたんで見てます。

 そもそも頭文字Dを知ったの結構最近です。
 きっかけはこのみの軍曹って人。
 これでめちゃめちゃおもろいなと思ったのが始まりでしたね。


 ・須藤京一という男がいるんですが、この男の考え方とかこの人自体をけっこう好きだなと思いました。いや前から思ってはいたんですが。
 高橋涼介は「オレはあいつが大嫌いだ」と言ってます。その言いたいところもよくわかるんですね。
 須藤京一は「合理性の極み」みたいなものを目指してまして、相手の弱点を突くとかそういうことをやって勝つべくして勝つということを信条にしています。それを言い方を変えれば「下品」になるし、また「正々堂々」みたいな価値観に比べたら相手の弱点をこつこつ突くなんてのはなんだか浅ましい感じもします。しかしじゃあ我々が例えばドラクエやったとして、「こいつ火に強いんだよな」というやつがいたとすればじゃあ氷で攻めようとなるのはけっこう普通ですし、むしろ必定と言ってもいい。むしろそこで「正々堂々」とか言って、回復しないとか、氷で攻めない、むしろ火と火の勝負に持ち込む、なんてやったら「あんた何してんの?」となると思います。普通に打つべき普通の手を普通に打っていく、そういう意味での合理性、そして合理性を求めるというのは我々の社会には結構必要ですし、それがあって普通に成り立っている「普通の手」の積み重ね、そういうものがこの社会をけっこう決めてしまっているし、ある意味ではこの社会の基盤を為しているともいえるでしょう。

 ・須藤京一はそうやってエボ3とミスファイアリングシステムで高橋涼介に挑みますが、破れます。勝つべくして勝つ。合理性を極めて勝つ。そうしていったところが、勝てない。
 「なぜだ、なぜオレは勝てないんだ!」
 そこで高橋涼介は須藤京一が右コーナーがヘタクソということを説きます。それは須藤京一にとっては盲点だったことで。これは何なのかと考えて見ますと、須藤京一にとっては合理性の極みであり、妥当であり当然打つべき手を積み重ねていけば勝てると。そう思っていたら、まさか自分の内に弱点があった。自分が右コーナーに対する苦手意識があったことに気づかなかったと。これを考えて見ますと、合理性の極みであり、妥当性のある手を打つということていうのはけっこう加点主義なんですね。ドラクエで言えば攻撃しよう、じゃあバイキルト。氷に弱いのであればマヒャド、とそういうことになります。しかしじゃあ「そうしたことを積み重ねれば勝てる」と思っていたら、レベルが足りてなかった。総合的な火力が足りていなかったと。勝手に要約すればそういうことになるかなと思います。
 そうなると、合理性の極みっていうのはけっこう楽しいんですよね。Aがいいか、いやBの方がいいか、とか。どういう手でいくかを選べる楽しさとワクワク感がある。しかしそこには盲点が当然のことながら入らない。弱点などは当然盲点の方に入るでしょうから、そうなると合理性の極みというものはそもそもその成り立ちからして成り立たないという矛盾があると。こういうことが言えるのではないかと思います。「今視野に入っているよさげなものを積み上げていくだけの積み木」という感じになるのではないでしょうか。


 ・この須藤京一という人、かなりお節介焼きだし人を見たらその素質を見抜いて育ててやりたいなと思うところがある、根はけっこういい人だと思うんですが、それもけっこう加点主義の塔という感じがしますね。でもそうしていった先で自らの盲点に気づいて、その塔がガラガラと崩れた、それを思うと、人がいかにしてその土台を築くのか。その上に塔を建てていくのか。言葉でこう言うのは簡単ですが、それをいざ実践していくとなるといかに難しいのか、というのを感じました。







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