現代ってのを読み解くうえでも、また自分自身の身の回りで起きたことをまとめるためにも、1000円あげると刺される問題ってのをここで考えておきたい。どういう問題か。
あるところに困っている人がいた。「どうしましたか」「いや実はおかねがなくなってしまってて……」どうもこの人は困っているらしい。じゃあそういう時にあなたはなにをするか。
①何もせず立ち去る
②1000円渡す
③5000円もしくは10000円渡す
多分ここでは①を答える人が多いと思うが、現実には②が一番しかも圧倒的に多いと個人的には思う。そしてまさにこの②のパターンこそが最も刺されるパターンなのだ。1000円渡して刺される、なんてそんなバカな事が起こったりするんだろか???と思われると思うのだが、現実にこれは起こり得る。
それは親切なわけだ。困っている人に対して困っているんでしたらこれでなんとかしてくださいね、とするのは親切だと言える。ところがこの親切というヤツは相手のプライドをひどく傷つける。まずこうして人にそれを知られてしまった、公然の事実となってしまったということが彼のプライドを損ねるのだが、その上に自分に対してなされた親切はさらに傷つけていく。「なんだと!!!この俺様が親切を施されるような程度の人間かよ!」「こいつまさかこの俺を舐めとんか」「俺っていう人間がそんなにみみっちい人間だとでも思っとんか」「こいつは俺に1000円渡すことで自分自身のプライドを満たしとるんだ」「オレのような価値ある人間には10000円渡すのが筋だろうが!!!」
そうやって1000円から始まったプライドの傷は徐々に深められていく。そうなると、この1000円を渡した相手を刺す以外に自分のプライドはもはや回復のしようがない、とこうなるわけだ。親切とは親を切る、とは書くものの、確かに親のように親身になって優しさを示した人間が切られるというのはまさに書いて字のごとく。そして切られた側にはその意味がよくわからないのだ。(1000円上げたのに切られるとは??)そう思って果てていく。親切とはいいことだ、くらいにしか思っていないからそうなる。ところが親切はいいこととはイコールの関係ではない。それどころか親切とは親身にした人間から切り付けられることを意味していたのかと。そっちとイコールだったのかとこうなる。
じゃあ5000円あげたら? ということだがこれもベストかどうかはわからない。「たった5000円ぽっちかよ!」となれば刺されることになるし。10000円でも刺されるかもしれない。10万でも100万でも刺される時は刺される。だからベストは①何もせず立ち去る、ということでその他はほとんど変わらないかもしれない。
・こういうプライドと反骨信の持ちあがり方というのは70年くらい前にはそこそこ見受けられていたような気がする。
「かわいそうに。これでも召し上がんなさい」
みたいになんかひどい目にあってる女の子が優しいおじさんから美味しいごはんかなんかもらうとする。
すると
「うるせえやい! あたいはこじきじゃねえやい!」
みたいなこと言ってその優しさをはねのけようとする。そういうのってかつてはよく見られたような気がするが、それを今風に探せばそういうことになるのだろう。
1000円あげるとあげた側は刺される。
しかし1000円は相手のポケットにしっかりと入っているというわけだ。
・そういうプライドの高さと反骨心からくる逆上というか「親切」現象というのはあちらこちらで見受けられる気がする。どうも先日の大阪でのビル放火もそうだし、そもそも京アニ事件だってこの手の仕組みに触れていたのではないかという気がする。あくまで個人的な感想だけど。
すごい優秀な先生が親身になって対応してくれる。
それを嬉しいと思う心と、「なんだと! この俺がそんなマネをされるほど落ちぶれたってのか! てやんでえ、この俺がそんな舐めたマネされちゃたまらねえ!」
こうなるともう刺すか放火するかという話になる。特に自他ともに認める腕利きの職人だったということになると、こういう職人気質というのはむくむくと頭をもたげても不思議ではない。でもまあその場合本当の筋としては「借りは返すぜ」ということなんだと思うけど、それを放火とか刺すという形で返すというのが現代だし現代の特色なんだろうなあと思う。まあ個人的にはそう理解している。
・ちょっと話はずれるけど今年某所でスズメバチの巣を3つ壊滅させてハチも1000匹くらいは取ったと思うけど、どうもそれがあまりいい印象をもたれてないようだと。まるで「よくもスズメバチの巣を取りやがったな!」というような話に推移しているようで、なんでそんなことになるんだろうかと思わず驚いたものだった。
その話を個人的に分析してみるとこうなる。
①スズメバチの巣を壊滅させるというのは命がけの大変なことであり、そういうことを矢面に立ってやるというのは物語の主人公がやるようなことなわけで、なんでそういうことをおまえがやるんだとなる。
→オレがやりたかったのにというのと、その役をあいつに奪われた! という自尊心の傷つきが発生する。
②今後スズメバチの巣がつかないようにプラスチックのかごみたいなので排気口を覆っておいたほうがいいと言っといた。家の内部にスズメバチの巣があると家の内部にハチが出てくるようになる(もうそうなっていたのだが)。100円でこれが防げるなら安いものだと思うと言った
→なんでオレがそんなことをしなきゃいけねーんだよ。いかにもオレがアドバイスもらわなくちゃいけねえダメ人間みたいじゃねえか。オレの存在にかけてもそんなことは絶対に許しちゃならねえ。絶対にそんなことはしねえ。
③こうして対策取られない結果、恐らく来年以降にまたスズメバチの巣ができるだろうなというのは予想される事態
→見ろ、またスズメバチの巣ができたぞ。あいつが去年スズメバチを全滅(自然界のも含めて全滅)させていればこんなことにはならなかったんだ。仕事の甘さがこういう結果をもたらしたんだ。あいつの仕事がクソだから、またやってきたんだ。
→これでスズメバチの巣がもう作られないという安全安心を手に入れられなかったばかりか、再び内部にスズメバチの巣が作られる事態を招いて、命すら危険にさらすことになるのだが、それ以上に重要なのは得ているものがあるということ。
⑴あいつはクソだ=それを言えるオレは素晴らしいという自尊心の回復の実現。
⑵そして再度スズメバチの巣ができたことで、いかにその仕事がダメだったかが物的にも証明されることになる。発言と結果が一致する。「あいつはダメだ」とイコールな素晴らしさとは別に独立して「オレは素晴らしい」を獲得できる。つまりオレは素晴らしいの二重性が誕生する。
⑶こうしてやればやるほどあいつはクソだ、オレは素晴らしいを獲得できる回路を確立できる。
……とここまで考えると、予防のために全力でやるということは意味がない(意味があるかないかで言えば大いにあるわけだが)、それどころかこの回路を大幅に阻むものになり得るわけだ。つまり本当にクソな仕事というのはその回路が作られることを阻むことという意味で、スズメバチの巣がもうできないようにすることだったりする。スズメバチの巣がまたできることともはやアイデンティティーが一体化を果たしているという(笑)
で、ここまでいくとそれは刺されても仕方ないわな~と妙に納得できたという。ハチに刺されるか人に刺されるかの違いだけで(笑)
・まあ刺されても仕方がないとはいえ、すぐにナイフや包丁を取り出してくる方がおかしいといえばそりゃそうだが、それがおかしいなんてのは当たり前すぎてもはや議論にならない。じゃあどう議論をするべきかとなると、ナイフが出てくるようなシチュエーションを作ることに問題はなかったか、とこうなる。で、そこでちょっとした親切をしてました、みたいな話になるとじゃあそれはやめた方がいいよねと。
・いや、オレ前々から思ってはいたが、方々から刺されるよなあ……とふと思ってなんでだろうなあと考えた結果ここに思い至ったと。刺されるってのはああそうか、オレが親切だからなのかと……(笑)でもこういう生き方を続けていたら近い将来本気で刺されるような気がする。そう思うんだったらとっとと立ち去る人間にならないとダメよとしみじみ思う。
去年はハチに刺されたけど今年は人に刺されたというようなことにならなきゃいいけどな……(笑)
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