フランス語桃太郎を終えて






 ということでフランス語桃太郎は終わりましたがどうだったでしょうか。
 実はドイツ語桃太郎を同時に見ていってまして、ドイツ語は全然わからないんですが、初心者向けというのはこういう感じなんだなあ、ものすごく難しい、というのをかなり痛感しながらやってました。レベルってのはやはりあるものですね。こういうことについて、プラスに見ればフランス語についてはそこそこレベルがある、だからある程度分かるし「これはこうだよ」と言えるんですけど、マイナスに見たらフランス語を完全にわからなかった頃とはやはり違うので、見えるものがやはり違っているんですね。そういう意味では、初心者に完全に寄り添えているというわけではないなというのをやりながら感じていました。まあ、仮に私が完全に初心者レベルということになれば、そもそも教えるどころかこうやって教材に取っ組み合うことすらできないわけですが……


 そういう意味では、「おにぎりどこ?」と言われて「そこにあるよ」と言うとします。で、それを見つけて手に取って食べる、ということになると。それを普通だとするとしますと、①そもそも「そこ」がわからない➁探しても見つけられない③見つけられても手に取ることができない④見つけられたし手には持てたけど、でも食べることができない、口に運ぶことができない……というような段階があって、初心者というのはこの4段階のどこかでつまづいているんですね。①~④をできるというのはかなりのレベルなしには実現できるものじゃないし、それを身に付けるにはある程度の訓練は必要なんだなと。訓練によって経験値を積まないといけないんだなと。フランス語できたからドイツ語もできるだろう、とやってみると、それがいかに難しいかを痛感します。ドイツ語に関しては私も①~④のこの段階なんですね。おにぎりもわからなければ、「それ」もわからないと。



 ・しかしまあこうしてフランス語桃太郎を見て行ったわけですが、これの良さというのはこれで一応あるとはいえるんですね。かなりスパルタ風ではありますが、強引に一日5~10分でもフランス語の桃太郎に触れることができる。そしてその総体としてのフランス語に馴染んでいける。これというのがフランス語における経験値を増すものであるというのは確かです。だから「あと100回これを読んでみたら」というのはかなり効果的だったりすると思います。
 そして我々は実際にそういう経験を積んできているはずです。日本語に関しては。だから日本語桃太郎を大体の範囲で苦も無く暗唱出来たりするはずです。恐らく幼稚園に通うか通わないかくらいの時に絵本の読み聞かせがあった。それによって100回とはいきませんが、そこである程度のレベルを積めたのではないかなと。そういうことを、じゃあ我々も大人になってもやってみるというのは効果的だといえるのではないかと思います。それが効果的であるということを実証しているのは、ほかならぬ日本語話者としての我々なのではないかと思います。そこには文法がどうとか慣用句がどうとかいうものはないわけですが、それでも我々は日本語を使いこなすことができている。となるとこれは非常に効果的なのではないかなと。

 でそう思うと確かにいろいろと効果的なんですね。これから一年間フランス語に関わらないなら絶対に内容を全部忘れる自信ありますが(笑)、それでもこのフランス語桃太郎をやれば最低でもこのレベルは取り戻すことができる。そういう意味でのレベルの固定化であり、レベルをこうして規定してくれているものに触れることができているということは、これはけっこうな財産になり得るなと思います。
 そう思うと、日本語桃太郎も地味にこれと全く同じ機能を果たしているんじゃないかなと思うんですね。確かにそこで多分5歳児くらいのレベルの言語は確保できているわけです。普段隠れて見えませんが、言語のレベルの階段みたいなものがあるようなんですよね。



 ・話変わりますが、実はフランス語桃太郎の隠れたテーマとして、「なぜ我々は英語を扱えないのか」というものが当初からありました。高校までで6年、大学までで10年英語をやってます。受験英語もやりましたし、TOEIC(トーイック)もやりました。けっこうな点も取りましたが、それでも英語を扱えるかと言われればかなり怪しいし、そういう人が多いのが日本であるというのが現状だと思います。私も含めたこの問題をどうとらえればよいのか。
 私はそれを「普通科」として捉えています。例えば商業、工業、農業などいろいろな分野がありますが、普通科というのはそれらと関わっていない、といえばそれはもう全然関わっていないんですね。それをマイナスに言えば、何もできない。プラスに言えば、どこにでもいける。そういう意味での可能性を、つまりは人としての総合力を磨いているのだと言われれば、確かにそれがいわゆる「普通科」なのかなと思います。我々の英語力もそれとかなり相通じるものがあって、マイナスに言えばできないんですね。英語を使えない。6年10年と学びながら使えない。でもそれをプラスに言えばどこにでも通用するだけの可能性は既に磨いてあるともいえる。これをどう捉えるかですよね。あれだけやってながら使えないのかと言われればそれはそうだし。でも例えばだから英会話に言って練習している人もいるよと言われれば、確かにそれを受けて能力を伸ばせるだけの基礎は持っている。それが我々だともいえるのかなと思います。こういう、いわゆる「非の打ちどころのない」……あるいは「可もなく不可もなく」な可能性を伸ばすのが我々の社会は好きなようです。


 ・まあとはいえ、こうして外国語について考えている以上それがかなり不満なわけでもあります。例えば英語の授業で我々は「日本語英語」を学びますが、これはもう悪習といっても差し支えないほどのものです。「アイライクナット―」的なあれでそういう習慣が染みつくということは、まだ学ばない方がマシというくらいのもので、学校へ行って能力を伸ばすために行っているはずが逆に後退させて後々まで、5年10年と足を引っ張り続けるような仕組みを身に付けて社会に出ていると。学校という場で、能力を伸ばすために通いながら、実はこういうものがあるということが恐ろしいことですよね。


 ・話が脱線気味ですが(笑)、なぜ我々が英語を扱えないのかという話でしたが。可能性を伸ばすのが大好きという話でしたが。それとは別に英語桃太郎をやってないからだというのは大きくあると思います。
 単語や文法に関しては覚えられても、英語の教材の丸暗記はできていないんですね。
 「Hello,Kumi!」とかそういうものに触れてはいますが、あれって内容皆無のスカスカなものですよね。丸暗記するだけの価値ある教材にほとんど触れていないということが我々の英語力を残念にしているのではないかと思います。我々がものを読むのには最終的に「意味」を汲み取る狙いがあると言えます。ところが「Hello,Kumi!」から何を汲み取ればいいのか。だから字面は読めても内容は読めない。意味を把握できない。そういうことは出てきているように思います。


 だから英語桃太郎はいいって話です(笑)丸暗記して、その上でどんな意味があるのか、この表現はどういう意味があるのか。そういうことについて考えていけるとすれば、英語桃太郎も非常にいい教材になり得るのかなと思います。そしてそれがやはりレベルを固定化し、いくら時間が経ってもそれ以下になることがないという段階へともたらしてくれるものになるのではないかと思います。


 なので、次回フランス語鶴の恩返しやるか、それとも英語桃太郎やるか迷ってましたが、とりあえず英語桃太郎やってみることにします。まあここに書いたとおりになるかどうかはわかりませんが。フランス語桃太郎と比べるにもいいのかなと思いますし。





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