のどもとすぎれば熱さを忘れる






 某組織が壊滅したいということを言い出したので、その組織のためにいくらやってきたと言ってもまあそういうことなら仕方ないと思って何も言わないことにした。事実上の壊滅宣言……壊滅したいです宣言は初めて聞いた気がするので記念に書いておくことにする。
 しかしまあプラスがマイナスに、マイナスがプラスにそっくり入れ替わるという奇妙な現象をそれにしてもたくさんオレは見てきた気がする。オレもこの組織のためにいろいろ尽くしてきたつもりだったが、それを面と向かって罵倒されたこともある。その意味がよくわからなかったのだが、しかし思い返してみると、つまりはこういうことかもしれん。
 人は恩というものを感じる生き物だと思う。「借りができたな」とか言うが、本質的に人は恩というものをひどく忌み嫌う生き物なのだ。なぜか。その借りというものをいずれは必ずや、どういう形か分らぬが、しかし必ず返さなくてはならぬ。つまりは手間暇をかけやがる相当に厄介な代物ということだ。その意味では、恩は明確なプラスである、しかしだからこそ同時に、明らかなマイナスをも意味する。そんなことにいちいち目くじら立てる人種がいるものかと思うが、ふと思い返してみると、今まであった不可解な出来事というのは全てこれで解決できるように思うのだ。
 「こころ」の先生じゃないが、「人というものは足を乗っけられたと思ったら、いつか足を乗っけてやりたいと思うもの」そんなことを言っていた。恩というのはまさに己の無力を突き付けられる瞬間であり、優越と劣等というのが明らかに分かれる瞬間でもある。これほどカッコ悪く、そしてカッコ悪い瞬間はない。そして我々はその実、恩というこの上ない恩着せがましいものの存在を事のほか忌避している。ハレとケがあるならば、これは明らかなハレである、そうであるがゆえにケガレを意味する何物かだろう。
 そしてこういう計算様式というものは恐らく我々の思考の片隅で一種のバグ、あるいは一種の正常な機能として社会的にどうも機能しているものらしい。因習的な何かというのは、どうもこれを元として発揮されているらしいのだ。それによって我々は不気味に動く。恩という明らかなプラスを、「恩を仇で返す」というプログラムによって返し始めるのだ。喉元過ぎれば、人はそのありがたみを忘れる、そしてそれどころか、熱さを思い知らされたのはヤツの仕業ではないのか、そうかヤツの仕業かと勘繰り始め、とうとう復讐にまで走り始めるようにすらなる。
恩は復讐の対象にすらなり得るのだ。


 我々は「話し合おう」と言えばなんでも分かり合えるように思っているきらいがあるが、この機能に関して言えば、何を言ってもムダである。恩に対しては火攻めでかかろうというような輩に対し、できることといえば「そうですか」と言ってさっさとその場を離れることだ。それが賢明であるとか、賢明でないとか。これはそういう議論よりも先になされるべきことだろう。








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