高校教育の失敗(公民と数学)






 ・多分普通に高校に通うと、普通科であれば数学やったり、公民やったりするんだろうなと。
 そしてその教育を受けた人材がほとんどである状況で、例えば選挙に行かない人が多いというような現状が起きていたりする。そうなると、公民はどんなに教師がいい人であろうとも、わかりやすくて点数を稼げていようとも、教育としては失敗しているということが挙げられるのではないか。
 テストに当たっては、高得点を稼げるかもしれない。その意味では、壁にぶつかった際にそれをクリアする方法を教えることには長けている……あるいは長けていない、そういう評価は下せるだろう。しかしそれは一視点しか示しているとは言えない。具体的に学んだことを活かせない、そしてそれが具体的な行動に繋がらない。つまりは選挙行動に行くことに繋がらない。そして選挙に行って、政治に興味をもって、自らの判断で対象を選ぶことができる。その意味での学んだことが具体的な行動に繋がるということ、具体的なものへと繋がっていくということ、そこに至って初めて教科を学んだ意義という者は見出せるのだとすれば、テストの点については云々できたとしても、最終的には失敗作を生み出しているということができるのではないか。あるいはそこまでを含めて教育というものに関わり切れていないと言えるのではないか。


 ・これは数学も同じで、かつては小学校の教育さえあれば普通に商人として生業として生きていけるだけの能力を寺子屋などは培ってきたに違いない。それが中学生へと遅れたとしても、基本的にはその方向性はそこまで違ってはいなかった。算数は数学になっても、その数学はまだ具体性をもって生きるだけのものを持てていた。
 ところが高校へ行き、数学はさらに抽象的なものへと変わっていく。もはや現実的なものと一体どこがどのように関わるのかわからない次元で数学は展開され、その結果確かに数学は得意だが、でも具体的にどのように数学を活かせばいいかわからない生徒が続出する。その結果、算数から数学へと発展してきた数学は行き詰るのだ。


 ・しかしこういう反論もあるだろう。
 いやいや、先日だってノーベル賞を取った人が現れたではないかと。つまり数学は現に具体的な形で生かされているではないか。確かにそれは正しいだろう。しかし問題は、果たしてその数学を具体的なレベルへ落とし込めるほどにまで深く理解できた人が果たしてどこまでいるだろうかということだ。
 一部の天才はその能力をさらに開花させ、ノーベル賞を取ることの出来るまでに発展させることもできただろう。しかし大多数にとってはどうだったろうか。抽象的な数学を抽象的なまま理解し、点数は取れても具体的なレベルにまで落とし込める例がどこまであるだろうか。その意味では、算数は数学へと形を変え、そしてさらに抽象性を増した数学はそのまま肥大して落としどころを見つけられぬまま消えていくのだ。


 ・算数としてみればもっと別な形で咲かせる花もあっただろうものを、下手に数学に乗っかってしまったがために抽象度を増して役に立てることももはやできぬまま消えていく例は少なくないような気がする。算数としても中途半端、数学としても中途半端。
 先ほどの公民もそうだが、この数学も同じことで、抽象性を増してそのまま消えていく。そして具体的な落としどころは一体どこだったのかをもはや見つけることもできない例は多々あるように思われる。これというのは教育の失敗の顕著な一例ではないかと思われるのである。






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