個人レベルから集団レベルの時代へ、その概念の獲得へ






 ということでワクチン打って歩きながら思いついたことが四つありましたが、そのうちの二つ目がこれですね。
 ・タクティクスオウガってゲームはSFCからPSPにリメイクされているんですが、けっこういろいろな要素が変わっているんですが、その中でも最も変わった要素の一つがレベルが個人のものではなく、集団のものになっているということですね。
 普通なら、レベルが上がればその人でありユニットがレベルが上がりますが、他の人が上がるということはありません。それどころか全然関係ないし、ましてHPとか力が上がるなんてことはありません。こっちがなじみ深いんじゃないかなと思います。
 ところがリメイクされたタクティクスオウガでは、レベルが集団のものになっているわけです。ナイトのレベルが上がったら、そのナイト職に就いている全員に効果があるわけで、つまりその戦闘で特に活躍していなくても上がったものは上がったのだと。だからHPとか力も上がるわけだし、その職業についてない人がナイトにクラスチェンジしたとすれば、1からではなく、その上がっているレベルから始まるということになります。

 ・でそれが前提知識となるんですが、あのシステムってものすごく変わってたなあ~と漠然と思ってましたが、意外とこの概念っていうのはかなりリアルなところを衝いていたのではないかなと。レベルというのは集団によって共有されるものである、ということを示すということは、ものすごく核心的な要素を打ち出したものではなかったろうかと。そんなことをふと思いついたわけです。


 具体的に言えばこういうことになります。
 努力というのは、個人に秘匿されるものだし、秘匿されて然るべきものだと我々は漠然と思っています。逆に「こんなに努力したんだぜ」と示されても「うぜえー」と思うし、思うものだと思います。そしてこの日本の教育制度と慣習、そして努力とが組み合わされて、その結果として「ある能力を背負わされた人材」が輩出されることとなります。まあ工場みたいなものですね。でも本来工場と違っていて然るべきだというのは、我々は人間だからであり、もっと自由があり性格があり、その結果多様性があって然るべきだからだと言えると思いますが、まあ我々は
何と言っても「作品」であることから逃れることはできません。そうしてある範囲に収束させられることとなります。それがどういう範囲かといえば、我々には欧米の方に行く力も希薄であれば、中国に行く力も希薄であると。中国からすれば、東大なんていうのは「中の上」程度に過ぎないのですが(確か)、しかし日本人からするとそれが最上であり、至上であり、努力目標となっている。そういうわけで、我々が北京大学とかを望んでも東大よりも遥かに上なんですが、中国人からすれば北京大学に落ちたら東大でも行くか、となって、日本人の最高学府であるはずの東大があぶれた中国人の行き先となっている。で、やる気のない日本人とやる気に満ち満ちた中国人がいるんですが、それを見て教授が嘆くと。そういうニュースが以前ちらほらあったことがありました。


 結局のところこれっていうのは広い範囲でのレベルの戦い、それもレベルにまつわる概念の戦いになりつつあります。それもまだ一方は個人レベルで、努力は個人の範囲であり、学力は個人のものだとなっています。ところが方やレベルは集団のものとなり、その学力の集団が集団レベルによって幅を利かせるようになっている。その意味では、私のする例えば勉強は私のものではないし、私のものではないべきです。もっと広い範囲に効果を持たせることができるというのが理想です。例えばこのブログを見れば世界史のレベルが上がりますよと。その上で90点で偏差値50とかになったとすれば、明らかにとある集団への影響はあったということができる。そういう現象がもしもみられるとすれば、これは非常に有意義なことなんじゃないかと。
 まあとはいえ今から世界史をやろう、次回のセンター試験の世界史を受けよう、なんてことはないわけですが(笑)そういう概念を思いついたということが重要でした。だから言葉を変えれば、有意義というのは個人によって閉ざされたものであってはならないと。もっと開かれたものであるべきだし、そうあっていい。そして個人の勉強が個人のための勉強でなくていい、そういう新しい勉強の形というものはあっていいということでもあります。
 そしてそういう戦いが既に広く行われていて、日本はボロ負けの様相となりつつある。そういうことを思いつきました。




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