物理のお勉強6






 というわけで延々物理やってました。
 物理はわかりません。以前の仕事で関わっていたことばかりなんですが、それで点を取ろうと思えば取れるんですけど、だからといって理解はそこまで到達していない。この到達し難さが物理だなと思います。
 延々ドップラー効果あたりをやってました。あの救急車の音が近づくと音が高くなって、離れると音が低くなるというあれですね。まあ理解が追い付いてないので今日はそっちの話は全くしません。



 ・湯川秀樹はかつて漢文のスペシャリストでありながら物理をやって、ノーベル賞を取ったとか。湯川の漢文能力が物理にどこまで関係しているかはわかりませんが、まあそういうこともあったということです。「ムダなことがない」というのであれば、恐らくこの漢文の能力でさえ物理の理解に関与するところはもしかするとあったかもしれません。
 ところで我々が理科を理科として学ぶのは、中学校が最後です。後は物理・化学・生物・地学をボチボチ専門的にやるだけ。例えば受験で必要なのであれば生物を取るとか。あるいは物理化学をやって受験するとかそういう話になります。最近では受験で必要だからと医学部で物理化学やって医学部受験して、1から生物を学ぶ例もあるんだと。生物全くやってない上にそこに危機感や興味もなく、それでなんで医学部なんだ???と以前にどっかで叩かれてましたが、まあ受験だからなあ、制度上の問題だわなあという思いが一つ。まあマイナスに捉えるってのも妥当な話でしょう。それとこの4科目があって、化学物理は済んでいるのだから、生物をやれば75%は網羅したといえる……というまあプラス思考的な思いが一つあります。私はこっちかなと。より完全を目指そうと思えば、医学部で生物を一からやって(まあ命に携わる者が生物の知識0これにいかにってのもわからないでもないですが)ってのはある意味では妥当にも思えます。
 しかしまあ、これだけ理科の範囲があるのに、例えば化学とか苦手な上にもはや関わるまいと思えば私なんぞは一生かかわらなくても生きていけると思うのですが、つまり理科の25%、生物だけやりましたで生きていけるんですが、これってどこまで健全なんだろうかなあとは思います。社会の総体というものを意識すれば、自分は生物、あんたは化学、あいつは物理……で4人そろって完全となる。いわば「みんな違ってみんないい」わけですが、果たしてこれは本当にいいのだろうか。


 ・例えば私は世界史やってますので、日本史は全然やっていません。最近あくまでシュミで日本史やってみると、意外とおもしろいし相性は悪くなさそうなのでとりあえずこのまま行こうとは思ってますが、しかしこれだっていわば2つの車輪みたいなものです。世界史はやったけど、自国の歴史は全く知らん。あるいは日本史はやったけど世界の流れは全く知らん。そういうのがいかに「ヤバい」ものかはよくわかります。自国の歴史を知らんくせに何が世界史なんだ、仏作って魂入れずではないか。あるいは日本史だけで世界史知らんとか、魂だけで仏なしって感じですね。
 100%そういうものを生み出そう、どちらかに区分されるような人間を生み出そうっていう方向性の今の教育の在り方ってどうなんだろうかと思えば、明らかに歪んでいます。それはわかる。恐らくそれと同様に物理化学生物地学も歪みがあるってのは確かでしょう。まあとはいえそれを埋めることは非常に難しいわけですが。


 ・あんたは物理、ぼくは生物……という形での「みんな違ってみんないい」式でありながら、その実理科の25%ずつしかできていない問題っていうのは、プラスに言えば全員揃えば完全になるとも言えます。みんながその道のプロフェッショナルだと言えます。だから集えば完全になると。マイナスに言えば、一人の中に理科の25%しか入っていない人間に果たしてどこまで高みが目指せるのか。生物や化学はプロフェッショナル、でも物理は素人同然。それどころか文系の物理専攻の者にも劣る。どう考えてもこれはまずいなと思います。これに危機感持ってその差異を埋める、とやっていくしかない。


 この思想の背景に何があるかといえば、エリート思想なんだと思います。「人生がある、その人生でムダなことを極力省いて、有意義なことを詰めていけばムダなことのないエリートが作れる」でも果たしてそういうムダを省きに省いた人間が果たして健全だっただろうか。エリート教育が成功だったとも失敗だったとも聞いたことはありませんが、ただ言えるのは「社長の息子はバカ息子」と相場が決まっているということです。これが意味するものはじゃあ一体何かってことです。良かれと思って小さい頃から塾へと通わせる。余計なことはしない。遊ぶとか時間の無駄。そういうやはりムダを省かれた人間がエリートとなっていく。
 で、その人は一人では完全じゃない。社会の一部として、他の人と歯車を合わせることによって初めて歯車となる、そういう思想を持たされた人間となっている。裏を返せば、一人では何の役にも立たない人間だってことです。


 ・定年が45歳になるとか言ってますが、妥当なところもあります。人が所詮は社会の一部である、そういう思想を背負っている。ならば当然より良いモノに置き換えられるならば、古く悪いコストも高いものは排除されることになる。だとすれば、こんな45歳で英語もろくにできない、理科も25%、社会も世界史または日本史。こういう人材を養成すること自体がここに至るまでの理想的な過程を経てきている。そういうことがいえるでしょう。もっといえば、完全であったならば我々はそう簡単に捨てることができなかった。あくまでこうも露骨に不完全だからこそ平気で切り捨てられるということでもあります。「エリート」ってのは、その意味では確かにそこにすっぽりと収まる「ネジ」みたいなものです。ネジの形容詞がエリート。
 でも、ネジの変わりはいくらだっているわけです。


 ・我々はネジじゃない、そういう思想的な背景を我々が持つべき流れになっているのではないかと思います。エリートっていうのはそういう小さくまとまる意味でのエリートもあったでしょうが、本来はもっと翁意味でのエリートもあったのではないでしょうか。ところが我々は小さくまとまることによるそのエリートの幻想から抜け出ることができない。抜け出ることのできないものを排除によって追いやる。そういう時代が来つつあるように思います。






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