死と向き合う
昔からの知人がなくなったとのこと。ちょっとシャレにならない衝撃があって、頭の中にぽっかりと巨大な穴ができたかのような感じ。なんというか、昔確かにあった
はずの記憶が死によってもぎ取られて、そこに空白が生まれているような。ここに至って初めてコロナ……まあそもそもコロナかどうか、ワクチンがどうとかもわからんけど、間違いなく影響はないことはないだろう。コロナというやつの本当の、本当の意味での影響の大きさを初めて痛感している。残念ながらコロナは怖い、では何もわかってなかったんだろうなあと。
じゃあそんなに親しかったのかといえばそんなことはないのかも……(笑)5歳、だから30年前には遊んでたんじゃないか??当時はまだファミリーコンピュータの時代で、マリオ3をもって遊びに行ってマリオ1を代わりに借りて返ってくるようなことを覚えている。最後に遊びに行ったのは果たしていつだったか。
小学校定額年の時は自転車で遠出してワクワクしたのを覚えている。多分それから先ほとんどかぶってない。中学校の記憶もほとんどない。高校は一緒じゃないから全然記憶にない。
とはいえ、オレがこうして生きてるように、別の人生があったのだろう。そうして思い返しているといろいろあったなあと思うのだが、残念ながらコロナ禍なんで葬式に行くってわけにもいかない。
何かありきたりのことばかりなんで、個人的に思ったことを書き留めておく。
個人的に、この人生は失敗だったとどこかで思い始めていた。
人は無力だ。無力すぎるので、過去にあったことを修正することもできない。それでさえも、考え方を変えてみるとか姑息な手段でちまちましたやり方しながら取り入れながら生きる……まあ失敗作だ、人は根本的には失敗作だと思っている。ずっと思っていたが。多分20年くらいこの考えに取り憑かれていた。いくら否定しても拭いきれないほど、人は無力で、愚かで、バカなことをしては過去に垂れ流していく。この愚かな様をなんと無様なものかと眺めていた。
しかしそうした考え方にこのぽっかり感は穴を開けていった気がする。そう、人は死んだら終わりだ。例え無様であろうとなかろうと、素晴らしい業績を残そうと、称賛の嵐だろうと、人は死ぬ。失敗作でも、大成功でもやはり死ぬのだ。
だとすれば、しっかりと今を生きるのが賢い。それというのはこのぽっかり感じのもたらした一つの答えのような気がした。死は悪いものだ、否定的なものだ……それもわからないではない。しかしこれをある程度の規模で拭いさることができたということは、少なくない影響があった。もっと早くこれを経験していれば……というのは良くないニュアンスになりかねないのだが、その死がムダにならないような形でオレの中に何か作用を始めているのを感じる。
死はムダではない。いや死ですらもムダではない。この死でさえムダな要素がないということ。ムダなものなどないと安易に言いたくはないが、この空虚さというのは自分でこうして思うこと以上に、それを遥かに上回って、何かプラスな作用をもたらしているというのを感じている。
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