ということで前回は庸芮(ようぜい)が魏醜夫(ぎしゅうふ)を救う話でした。太后があいつを殉死させろといって言われた方はもうめそめそと泣いて諦める。どこまでそうかはわかりませんが、コミカルな印象よりはそういう諦めの印象を受けましたね。こりゃ詰んだな、という。
秦は韓を攻め、陘(けい)の城を囲んだ。
范雎(はんしょ)は秦の昭王に言った。
「人を攻める者と、地を攻める者とがおります。
穣公(魏冄(ぎぜん)は十回魏を攻めましたが、破ることができなかったのは、秦が弱くて魏が強かったのではありません。その攻める理由が地を攻めること(つまり土地を得ようとすること)にあったためであります。土地は主君の甚だ愛するところではありますが、主君とは人民がそのために死することを願うところのものであります。つまり主君の愛するところを攻めて、死を願う者と戦うのであります。それゆえ十回攻めても落とすことが叶わないのであります。
今まさに王は韓を攻めて陘を囲もうとしておられます。
この臣は願いますに、その土地を攻めるのではなくその人をお攻めくださいますように。王は韓を攻め陘を囲むのに、張儀をもって理由としてください。
張儀の力が大きければ、土地を割譲して王に償おうとすることでしょう。土地を割譲すれば韓の土地は尽きることでしょう。
張儀の力が少なければ、王は韓より張儀を放逐して張儀ほどではない者と交換してください。これによって(人物が平凡な上に王もまた凡愚であることから)王が韓に得るところのものはすべて得ることができるでしょう」
・張儀一体何年生きているんだ(笑)って感じですが。
恵文王の時代に活躍したわけですが、楚を騙し討ちにしたりして秦の国力を大幅に上げています。
その後武王とうまくいかず、秦から出ることになります。
これで魏に行った後に五年程度で死去するという話だったと思いますが。
武王の代はすぐ終わって昭襄王となり、そこから30年程度で確か范雎(はんしょ)が来ていたと思います。なので、そこから30年張儀も生きていたとならないと話がおかしい。だから范雎のくだりがおかしいか、あるいは張儀のくだりがおかしいかどちらかだと思います。時系列で考えると、ちょっとかぶらないように思います。かぶる方に無理があるというか。そして張儀が魏に走った後に韓などの諸国に対して働きかけをするというのも考えられますが、それにしてはその後の張儀の活躍がほとんど知られていないというのも違和感があります。どうもこの話自体がいろいろ無理があるというかおかしい話のような気もします。
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