新戦国策秦5-2-2、范雎(はんしょ)が昭襄王に話すという話



 前回の続きです。
 范雎(はんしょ)が秦王と会って話をしている場面です。


 
「(そうではありません。
 この臣はこのように聞いております。かつて呂尚(りょしょう)が文王に会った時には、ただ漁夫となって、渭水(いすい)の北で釣りをしていただけでした。そのようなものは、国君と漁夫ですから交わりはないに等しいものであったでしょう)


 既に一度説いて太師(たいし、天子の師)とし、馬車に載せてともに帰ることができたというのは、その言葉が深かったためであります。それゆえに文王は果たして任用して呂尚のために成功を収め、ついには天下を収めてその身は帝王となりました。もしも文王が呂尚を疎んじて深くまで言わせることがなかったならば、周は天子の徳などなく、文王・武王は共に王業を為すことなどできなかったでしょう。


 今、この臣は他国からやってきた者であります。当然王との交わりも浅いものとなります。意見を述べようと願う者は皆君臣の関係について正していき、骨肉の関係に直していくものです。それゆえこの臣の拙い忠誠について述べたいと思いますが、しかし未だに王の御心が分かりません。三度尋ねられて答えなかった理由というのはここにあります。臣は恐れるところがあり、敢えて言わなかったのではありません。今日王の御前で言って、明日誅殺の憂き目に遭おうとも、この臣は恐れるものではございません。大王がこの臣の言葉を信じて行うのであれば、死でさえもこの臣を悩ますものではなく、身の滅亡も憂慮するものではありません。身に漆(うるし)を塗ってらい病となろうとも(実際にらい病になるのではなく、らい病のようになるという意味)、髪を振り乱して狂人となろうとも、それでさえこの臣が恥とするものではございません。

 五帝は聖人でしたが死にました。三王は仁でしたが死にました。五覇は賢でしたが死にました。烏獲(うかく、秦将で秦の武王と力比べをした剛力の士)は剛力でしたが死にました。奔育(ほんいく、これも剛力の士)は勇猛でしたが死にました。死とは人の免れることのできないものであります。死への当然の流れに対して少しでも秦の力を補うことができれば、これこそがこの臣の願いとするところであります」


 ・王と優秀な軍師が出会う場面というのは歴史上幾つかありますが、范雎(はんしょ)自身はこれを文王と太公望の出会いになぞらえています。確かに太公望は出会ってすぐの話で王に深い信任を得たのでしょうが、考えてみればよく知りもしない関係なのに、話をしてそこまでの信任を得るということがなかなかあることではない。あまり深く考えたことはありませんでしたが、その話術というのはいかにとんでもない技術を伴っていたのか。また、不可能事を可能にするためにはどれほどの技術が必要となるのか。それを思います。


 三顧の礼なんての後世にはありましたが、考えてみれば范雎のこの場面が引き合いに出されることはまずありません。聞いたこともないです。それを思えば、范雎という人のやり方、技術、そういうものが説明がなくてもわかるほど素晴らしいものである、というよりは、地味だけど着実であり、いかに先人から学んでいたか。そういうことの方を思わされます。








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