「なぜバカなのか」





 「なぜバカなのか」
 この問いを問いかけられたが(別にオレに対して言われているわけじゃないぞ笑)、確かにこれというのは不思議なことだ。もっと合理的、もっと打算的、もっと得をするように……いろいろ考えられることはあるのになぜかそれらの選択肢が選ばれることは一切ない。なぜかほどほど、なあなあ……いやそれどころではない、もっとも最低だと思える選択肢すら人は選び取る。ここで「バカとはなんぞや」とか「そう見えるということはそう見える人がバカだ」というような話をしようとは思わない。確かに起きている事態はバカなことであり、そのバカなことを続けていると人がみな滅びかねない、そのくらいバカなことがあちらこちらで起きている。別に政治だけを問う必要もなく、例えば逆走したり、故意に追突をしたり、人生を一発で棒に振るようなバカな事態があまりにも増えている。これはおかしい。危機感を感じていいレベルでおかしいと思う。なぜバカなのか。なぜ人はバカになるのか。それをいくつかまとめてみたい。

 ①エリート主義
 エリートなんて言葉はおよそ「バカ」という言葉とは真逆をいくかのような言葉だが、実際にはエリートがバカ化の端緒となっているということは多々あるように見受けられると思う。
 エリート。やれ年少期から詰め込むとか、無駄を極力減らすようやるとか、あるいは二世三世となってそのことに携わる。そうすればリクツ的には最もムダなことがなく、なおかつその事をやる上で最も凝縮された経験と知恵とが集められ、リクツ的には最高のエリートが生まれる、とこういうことが考えられる。しかしこれは幻想だ。幻想それどころか害悪でしかない。人生生きてきて、いろいろ役に立つこともあれば役に立たないこともある。人は遊ぶことだってすれば道草だって食う。それらを全部切り捨てればいい結果が出るなどということは断言することは非常に難しい。何がプラスと出て何がマイナスと出るか、なんてことはそう簡単にわからない。それを人間が愚かかつ浅はかな知恵の範疇で考えて「役に立つこと」「プラスなこと」だけを詰め込んだところでいい結果が出るはずがない。ところがその浅はかさは「エリート」という形で語られるものだからそりゃいいものだとなる。これっていうのは我々の考える短絡的な欲望を他人に投影するもので、最も害の大きいものだと言えるだろう。

 ②先達を崇める傾向
 エリート主義とかぶるところもあるが、何事も我々は先達を崇め奉り過ぎる。例えば松下幸之助とか、盛田昭夫などを捕まえてきていかに偉大な先達だったかという風に語る。そうすると、その副社長や社員以下皆を山で表すならば、山頂の高さはもう決定されているに等しい。そうなると、「松下幸之助がいかに素晴らしかったか」というように語ることは、それ以上の存在を実質的に認めないことに等しい。そうなるとその後に求められる存在は何かといえば、松下幸之助以下の人間である、とこうなる。先に出た人を崇め奉ることはそれ以下の人間をその後に求めることとイコールであると言っていい。事実そういう序列化を行って、皆がそれにうまくはまってくれれば組織化は容易くなる。それにはまってくれなければ、組織としては正常にいっているとは言い難くなってしまう。だからこそ、その枠にはまらない存在というのは求めないし、求めてはならないのだ。優秀な存在というのはその枠を脅かしかねないわけだから、そういう存在であれ、あるいは風紀を守ろうとしない不良であれ、その枠にうまくはまってくれない意味では等価であると言える。こういう組織作り、つまり前は良かったが後は尻つぼみという組織は統制という一点においては楽かもしれないが、多種多様な人の多様性を認められない、それだけの許容力もないことが表立って既に示されているわけだからそりゃ右肩下がりになっても仕方ないだろう。

 ③隣人がバカであって欲しいという性向
 これっていうのは現代においてはかなり根強くある、顕著に見られる一種の特徴のように思われる。人は隣の人に、できる限り自分以下であってもらいたいと思っているのだ。バカであって欲しい、学歴は自分以下であって欲しい、あれができないでほしい、これもできないで欲しい、学歴はあるかもしれないけど地頭はバカであってもらいたい。そういう願いを漠然ともっているということが、つまりは先にあげたような「山頂」を規定する行為であるわけだが、こういう性向をかなり強く我々は持っていると思うし強く持たされているように思うのだ。隣人がバカであるとか、不幸があるとか、事故が起きる、不運がある、そうした時に「オレはそうではない」という気持ちを強く持つことができる。それはもっと言えば隣人の不幸を願うということであり、幸せを願わないということでもある。他人にできるだけ不幸なことが起きてくれれば、もっと下がってくれれば、相対的に自分はそうではないと思うことができる。「バカなヤツだ」「運の悪いヤツだ」と思いたい、「バカなやつであって欲しい」「運の悪いヤツであってもらいたい」つまりは他人の不幸をできる限り願いたいのだ。成功したヤツがいれば、「まああいつは成績は良かったかもしれないが、性格は悪いから」そういう形で我々は我々を納得させたい。成績の良さを性格の悪さと結び付けて「=」に持っていきたいのだ。人が不幸な境遇に陥れば、オレはそうはならなかったと安心できる。オレオレ詐欺でまた騙された人がいますと聞けば、ああまたバカが出たかと優越感に浸ることができる。それというのを突き詰めていけばどこへ出るか。「他人の不幸を願うこと」が「オレすげえ」とイコールとなる。そしてできる限り人には幸せになってもらうことなく、できるだけ不運が凝縮され、不幸な人生を歩んでもらいたいと思う。しかしそうなると目線は常に下向きの目線となる。下を見て、自分以下だ、あいつはバカでオレ以下だと思って安心感を捻りだしては安心しなくてはならなくなる。そういう人間が真に絶対的な基準で幸福というものを果たして人生において享受できるものだろうか。その意味では本当に見失っているのは絶対的であるという基準の方であると言える。


 こうして①②③となっていった末に今の日本の形がある。バカなことを引き起こして混乱を招き、時々二次大戦となぞらえたりしつつ、その結果を「悲惨なものとなりました」と言いたい人というのは確かにいる。そしてそれによって大多数は確かに恩恵を受けることになる、それは恐らく必要悪だと許容されている。しかし本当の意味でそれは仕組みということを克服した末に成立したものではない。つまりは仕組みという呪縛から免れることはできない。その意味で恐らくこの「成功」は子孫に多大な禍根を残す。二次大戦がなぜか彷彿とされたように、この時代もやはりいつか彷彿とされることになる。本当の意味での「バカ」というのはそこを克服しようという意図を持たない者であり、とうとう最後まで持てない者ではないかと思える。


 ・そして以上の事を逆に言えば、他人の幸せを本当の意味で願えるというのは極めて頭がいいということでもある。仲のいいあいつが成功した、それを素直に(あるいはひねくれて打算的に、という意味でもいいと思うが)喜べるということは決して容易いことではない。嫉妬したり、いろいろ複雑な感情を腹の内にしまい込んであれこれと考え込まないといけない人もいる、あるいはそれどころかそうでない自分がみっともないとまるで自分が傷付けられたと感じて、被害感情から「おかしいだろ!」とか言い出すヤツも多分いる。そういう中で他人にいいことがあるというのはいいことだと思えるというのは極めて頭がいい。そして強い。そういう計算をしていちいち相対的な劣等感やなんかを引っ張り出してこなくてはならない人よりは遥かに強い。


 ある意味では人がそういう強さと賢さを持てなかったからこそ昏迷の時代に至り、そして今の時代が作られたともいえる。



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