ということで前回は武王が屈強な使者が苦手だったのですが、そういう人は相手にしないでおけば自ずと楚の方で使者を選んでくれるでしょうとアドバイスするという話でした。
甘茂が秦の宰相となった。
王は公孫衍(こうそんえん)のことを愛しており、問題の時には立って話をすることもあった(ほど親しかった)。ある時、自ら「私はそなたを宰相にしようとしているのだ」と言った。甘茂の部下がそこを通り掛かってこれを聞き、甘茂に告げた。
甘茂は王にまみえて言った。
「王に置かれましては賢相を得たとのことで、再拝してお祝い申し上げます」
王は言った。
「私は国をそなたに託しておる。どうしてこの上賢相を得たりできようか(反語)」
「王は犀首(さいしゅ、公孫衍の官職)を宰相としようとしていると聞きました」
「そなたはどこからそれを聞いたのだ」
「犀首が私に言いました」
王は犀首がばらしたことを知り、怒ってこれを国から追い出したのである。
・公孫衍(こうそんえん)はこうして秦を出て魏に仕えるようになりますが。
義渠(ぎきょ)の君主をけしかけて秦を襲わせたのはこの後の話のようですね。
散々働いてきた自分を追い出した秦を許せなかったのかもしれません。
しかしなぜか恵文王のくだりですから、時系列としては魏→秦→魏とならないとおかしいんですが。実際にそういう話がもしかしたらあったのかもしれませんし、あるいは昔のことですから50年100年単位の細かいことなどどうでもよかったのかもしれません。戦国策の場合重要なのはその話がおもしろくて見どころがあるかないかであり、必ずしも時系列をただ追うだけ、というわけではないようですから。
・甘茂が自分の身を守るためにウソをついたというくだりですね。
甘茂も名将とは言え、王が公孫衍を愛しているとなるといつ自分が標的となり殺害されるか追い出されるか分かったものではありません。その意味では、部下が通りがかったのはたまたまなのか必然なのか。
確かに、一見ウソついて政敵を追い出した甘茂は悪人にも見えますが、恐らくそう見ると話を見誤るように思います。
放っておいたらいつ寝首をかかれるかもわかりませんし、そういう保身ということを常に中心に考えないといけない。その意味では王に寵愛されることになり油断した公孫衍の側に非があったとみるべきだし、そういう隙をみせた公孫衍に対し有利になるよう働きかけた甘茂の行動に必然を見出すべきなのだろうと考えます。そしてその好機をもしも生かせなかったならば、追い出されるのは甘茂だったのではないか、そういう極めて危うい紙一重の戦いを味方との間でやっていたということが重要でしょう。
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