ということで前回は陳軫が楚から来て、また秦に帰っていくという話でした。
義渠(ぎきょ、長安の北方。秦と魏とが良く争っていた)の国の君主が魏に行った。
公孫衍(こうそんえん、就いている官位から犀首(さいしゅ)とも呼ばれる)は義渠の君主に言った。
「道が遠いために、再度お目にかかることができませんでした。できれば昨今の事情を申し上げたいのですが」
義渠の君主は言った。
「伺いましょう」
「中国の諸国が秦に向かって兵を進めない時には、秦の方では義渠の国を焼き討ちして国を奪おうと考えておりますし、秦に向かって兵を進める時には秦の方では身軽な使者を用意し、重厚な贈り物を用意して貴国へと送ろうとしております」
「子細承知いたしました」
そうして間もなく、五国が連合して秦を討った(韓・魏・趙・燕・斉)。
陳軫は秦王に言った。
「義渠の君主は蛮夷の国ではありますが賢君です。
王はこれに贈り物をして心を取り、味方とするに越したことはありません」
秦王は言った。
「よし」
こうして布を二千きれと美女百人を用意して義渠の君主に贈った。
義渠の君主は群臣に言った。
「これこそが公孫衍の言っていたところだ」
こうして兵を興して秦を襲撃し、李帛(りはく、秦の邑)で秦軍を大いに破ったのである。
・秦から贈り物が送られる時というのは、秦軍が各国との争いで弱っている時だと教えておいたので、これは好機と見た義渠(ぎきょ)からの軍勢が秦を襲ったという話ですね。そういう風に義渠を教えておいた公孫衍がいかに脅威であったか。そしてこのことを秦軍はこの話を通してわからないというのも脅威です。
公孫衍(こうそんえん)
いろいろ複雑な経緯を持つ人のようですね。
元々の出身は魏であり、秦に仕えていたと。そこで魏を相手に戦って大戦果を収めてもいるようです。ですから口が立つだけでなく、武勇や指揮能力にも秀でていたといえるでしょう。ですが張儀が宰相になったので、その張儀と不仲の公孫衍はそれから魏に行くようになった。ある意味では、張儀はその智勇兼備の公孫衍以上の価値があったともいえるし、まあ確かにそれだけのことをしているというのはあるかもしれません。それにしても張儀一人のために公孫衍は魏に行くことといい、陳軫は楚に行くことといい、いろいろ人事的な意味での張儀の影響力の大きさを感じさせられます。
ふと思い返せば、こういう話を書いていました。
戦国策64、甘茂(かんぼう)が先手を打って公孫衍を追い出す話
これを見ると、直接の原因は張儀ではなく甘茂のようですが。まあなんにせよ、公孫衍が秦を出ていく理由というのはいろいろあったんだなと考えるのが大切なのかなと。
・義渠(ぎきょ)というのは「内モンゴルのオルドス地方」ということだそうです。
こちらには最近のオルドス市があげられています。
全然関係ないですが、三国志に蒋義渠(しょうぎきょ)という人がいたなあと。
本当に今回と関係ないですが(笑)
・今回の話は、秦から公孫衍が魏に移った後の話のようですね。
いろいろ経緯はあったかもしれませんが、秦王から公孫衍への感情は特にないようです。しかし公孫衍の中には秦に一泡吹かせてやるという思いがあったようです。そしてこの手によって秦軍に大打撃を与えて満足といったところでしょうか。さらりとそのための準備を情報として流すことで義渠の君主に行動を促す。非常におもしろい話だと思います。
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